映るのは少女か老婆か

【2017.3.12】
インディカー・シリーズ開幕戦 セント・ピーターズバーグGP
 
 
 2017年のインディカー・シリーズはウィル・パワーがポール・ポジションを獲得して始まった。ごくごく当たり前に見知った光景だった。2010年からこっち、次の年もそのまた次の年も、昨年にいたるまでこの選手権はそういうふうに始まるものと決まっていた。正確にはこの間1回だけ日本人に特等席を譲っているのだが、そんなのはちょっとした例外だ。だから今年もセント・ピーターズバーグでいちばん速いのはパワーなのだと最初からわかりきっているのだったし、日本時間でいえば日曜日の未明にコーヒーを沸かしながら予選を見届けたあと、肩をすくめて「ほらね」とつぶやく以外の反応が起こるはずはなかった。それは何一つ意外なところのないタイムアタックで、だからわたしはその結果に心動かされることなく自分の出場するカートレースの身支度をはじめていた。待ち望んでいた開幕とともに過ごすには少々慌ただしい休日の朝だったが、自分や普段から活動をともにするチームメイトに関連する大会が3つもあって、わたしの心はまずそちらへと向いていたのである。 続きを読む

インディカーの勝者は必然と偶然の交叉点に立つ

【2016.7.17】
インディカー・シリーズ第12戦 インディ・トロント
 
 
 インディカー・シリーズのレースはその構造ゆえに論理の積み重ねにを断絶すると書いたのはつい先週のことだ。ゆくりなくやってくるフルコース・コーションが隊列を元に戻してあたかもさいころが振り直されるように展開が変わり、最後には大なり小なり偶然をまとった勝者を選び取る、そこにはスタートからゴールまで通じた一貫性のある争いが存在しないというわけである。もちろんこのことは競技者の努力がはかない徒労であることを意味するものではなく、賽によって翻弄されることを前提とした正しい戦いは存在する。周回を重ねる過程において、強い競技者は賽の多くの面を自分の名前に書き換えていき、弱者はやがてあらゆる面から名を消されて勝利の可能性を剥奪される。スタートから積み木をひとつずつ積みあげるようにレースを作っていくのではなく、そのようにしてレースを決定づける賽を偏らせようとするせめぎあいに、インディカーの特質はある。最後の最後に運に身を委ねなければならない事態がありうると知ったうえで、せめてその確率を支配しようとすること。必然と偶然が交叉する場所に、インディカーの勝者は立っている。
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シモン・パジェノーと佐藤琢磨のターン1、あるいはウィル・パワーは開幕の不在によって2016年の主役となる

【2016.3.13】
インディカー・シリーズ開幕戦 セント・ピーターズバーグGP

2016年の選手権で最初に記録された得点はウィル・パワーの1点だった。2年前の一度だけ佐藤琢磨にその座を譲った蹉跌を除き2010年代の開幕すべてを自らのポールポジションで彩ってきたパワーが今年も飽きることなく予選最速タイムを刻んだのだったが、これはあたかも、観客に対してインディカー・シリーズの変わることない正しいありかたを教えているようにも思えてくる。いわばこれは競争ではなく、そうあるべきものとして執り行われる儀式である。きっと、セント・ピーターズバーグの指定席を短気な童顔のオーストラリア人が予約することによって、はじめてインディカー・シリーズは一年の始まりを迎えるのだ。いつものウィル・パワー、いつものチーム・ペンスキー。予定調和の開会宣言。前のシーズンの終わりから数えて6ヵ月以上もレースのない時間を過ごしてきた観客にとって、そんな儀式めいた繰り返しの出来事は、空白を埋めてふたたびインディカーの営みへと戻っていくのにちょうどよい心地よさを抱かせる。これはわれわれの知っているインディカーなのだと。
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語りえぬことに口を開いてもろくなことにはならない

【2015.5.30-31】
インディカー・シリーズ第7-8戦 デュアル・イン・デトロイト
 
 
 最大の祭典であるインディアナポリス500マイルから5日空いただけでもう次の決勝が始まるのだから、関係者はもちろん、現地からようやく火曜日の夜に帰宅した日本人ならずとも少しは落ち着けと言いたくなろう。天も似たような気持ちだったのかどうか、インディ500には遠慮した雨雲を、大きな利息をつけてデトロイトに引き連れ、混乱に満ちた週末を演出してしまうのだった。土曜日のレース1、日曜日のレース2ともに突きつけられた赤旗は、レースを唯一断ち切る旗としての暴力によって、今季ここまでかろうじて認められてきたシリーズの一貫性を奪い去っていった。このブログはレースにおいて複雑に絡みながらも始まりから終わりまで一本につながる線を見出し、テーマとして取り上げて記していきたいと考えているが、気まぐれな空模様や凹凸だらけの路面、そして数人のドライバーの不躾な振る舞いと楽観的すぎる(あるいは悲観的すぎる)チームの判断は、デトロイトの週末からあらゆる関連性を切り離し、すべての事象に因果のある説明を与えようとする態度を拒否するようだった。なぜレース1でカルロス・ムニョスが勝ち、レース2をセバスチャン・ブルデーが制することになったのか、もちろん原因を分析して答えることは可能だが、その原因に至る道筋にはまったく理解が及ばない。はたして土曜日の始まりには、インディ500がそうであったように、結局チーム・ペンスキーのための、付け加えればこの都市を地元とするシボレーのための催しになるとしか思えなかったダブルヘッダーは、わたしの頭にいくつもの疑問符を残したまま過ぎていこうとしている。
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「敗者」は佐藤琢磨だけだった

【2014.3.30】
インディカー・シリーズ開幕戦 セント・ピーターズバーグGP
 
 
 いささか旧聞に属する、といってもいまだ継続中のできごとではあるのだが、ともかくその事故についてあえて誤解を恐れず述べるとするなら、偉大なF1チャンピオンだったミハエル・シューマッハがスキーの最中に頭部を強打して意識不明の重体に陥ったという報に接したとき、わたしに何らかの情動が引き起こされたかといえば、たぶんそんなことはなかったのだった。偽悪を気取りたいわけでなく、もちろん人並みに驚きはしたし、平均的なモータースポーツのファンと同様に心を痛めたとは思う。それでも2011年のラスベガスでやはり偉大なインディカーのチャンピオンだったダン・ウェルドンの死亡事故を目撃してしまったときに比べれば、感情の波はずいぶんと穏やかなものだったはずである。

 レーシングドライバーがサーキットで命を落とす衝撃と比較したら、というような話ではない。だれだってそうであるように、わたしにはわたし自身の生活と、感傷を抱く範囲がある。かつておなじサーキットを走った仲間をはじめとした彼に近しいひとびとと同様に振る舞えるわけがないのは当たり前のことで、AUTOSPORT webなどに並んだ一連の記事を読みながら、シューマッハという存在が急速に過去へと流れていき、自分が心を差し出すべきモータースポーツからはすでに去ったあとだった――それに対して、当時のウェルドンはまさしくその中心にいたのだ――とあらためて気付かされた、そういうシーズンオフがある年に存在したということである。

 モータースポーツは結局のところ今の情動なのだと何度か書いてきた。ひとたび車がコントロールラインをまたげば時計は容赦なく、1秒を1000ものあわいに切り刻んで、どんなときでも、だれにとっても、公平に、戻ることなく動きはじめてしまうのであり、一瞬と呼ぶことすら生ぬるいその今だけがすべてであるモータースポーツを過去に遡ってなお今のままとして書き留めようと信じるために、視線はひとつのコーナーの頂点にしか向かなくなってしまうものなのだ。一足早く始まったF1でも、3月最後の週末に開幕を迎えたインディカー・シリーズでも、われわれが抱くべき感傷は最後にはレースを微分した先だけに存在し、だからこそ目の前のレースを見る以外にない、できないのだと、ここでくらいは言い切ってしまっていいのかもしれない。

 2014年インディカー・シリーズの端緒となるセント・ピーターズバーグでの連続ポールポジションを4回で止められたウィル・パワーが新しいポールシッターとなった佐藤琢磨を抜き去った31周目のターン1からターン2、この場面を見るだけで週末のすべてに満足すべきだろうと感じられるほど濃密で良質な数秒間が、開幕戦の進路を佐藤のレースからパワーのレースへと変えさせた交叉点だったことはだれの目にも明らかだろう。このバトルが生まれた31周目までのうち28周をリードした佐藤と、首位を奪ってからゴールまでに76周のラップリードを積み上げたパワーとを合わせてふたりでレースの97%を制圧した事実を持ち出すまでもなく、この日勝利に挑んだと表現することが許されるのは、実際に圧勝したパワーと、最終的には7位という見た目には凡庸な順位に終わった佐藤だけだった。

 110周のうちの31周目のできごとが勝敗に直結した事実は、裏を返せばそれ以外の場面に異なるレース結果を生み出すかもしれなかった可能性がどこにも現れなかったことを意味している。佐藤を抜き去ったパワーは、そこからチェッカー・フラッグを受けるまでなんの危機もなく、ピット作業で一時的に順位を下げたときを除いて首位を譲らなかった。強いてあげれば82周目の終わり、フルコース・コーションから再スタートする際にリスタートラインの認識の違いによって生じた混乱がもしかしたらレースの綾になったかもしれなかったが、結局のところ原因となったパワー自身にはなんの被害も及ばなかったし、混乱のなかで不運にも起きてしまったマルコ・アンドレッティとジャック・ホークスワークの事故はレースの本質とはおよそ無関係なもので、ペースカー導入周回を少し延ばす効果を生む程度のできごとに終わった。そしてほとんどそれだけだ。セント・ピーターズバーグで起きたそのほかのことは、覚えておくほうが難しい。

 たとえば2位に入ったライアン・ハンター=レイの姿を見た人が、この日曜日にいったいどれくらいいたというのだろう。最後にはパワーに2秒差まで迫れるスピードを備えていたはずなのに、その走りに心揺さぶられる――国籍を超えて、と言ってもいいが――時間などいつまでも訪れなかったではないか。終盤にようやく導入されたペースカーを利してエリオ・カストロネベスを抜いてはみたものの、あとはぼんやりとパワーの背中を眺めるだけで過ごした結果、2位という順位が舞い込んできたにすぎなかったのであり、勝者をレースにおいてリードする者だと置くならば、1周たりともラップリードの欄に名前を刻めなかった彼に、勝利に挑む資格など最初からなかったのだといえる。

 いやそれだけでなく、最終結果には2位から10位のライアン・ブリスコーに至るまで3人のシリーズ・チャンピオンを含む8人の優勝経験者がずらりと並ぶことになったにもかかわらず、そのなかではっきりとパワーの前にひれ伏すことのできたドライバーは数秒間のバトルの末に屈した佐藤琢磨以外にいなかっただろう。もちろんそれぞれにいくばくかの好感すべき場面は存在しえたとはいえ、レース全体を揺さぶる可能性を感じることは難しかったはずだ。佐藤が敗れたと言える瞬間はまぎれもなく31周目ターン2であったが、ほかのドライバーはその瞬間を知るよしもないまま、自分なりの順位で一日を終えたのだった。それはたぶん敗北とは認めがたい別の結果であり、佐藤がこの日讃えられるべき理由でもある。

 敗北とは、それを勝利の裏返しとするならただたんに1位以外の順位でチェッカー・フラッグを受けることである。だが2位以下に終わったあらゆる者をそうやって同じに括ることはかならずしも正しくない。昨季中盤のカストロネベスがしばしば自分のポジションを守るためだけの姿勢に硬直しつづけたことと、たとえばアイオワで圧倒的な速さを誇ったジェームズ・ヒンチクリフに一太刀を浴びせたのちに乱気流に沈んだグレアム・レイホールの走りを同様に扱うことが歓迎されるはずはないといえば納得がいくだろう。

 1位以外のすべてという膨大な可能性から、なおもわれわれが心から「敗北」と呼べる現象があるとすれば、それは勝者にならんとする資格をつねに持ち続けながらそれでも屈服するということ、1位以外という怠惰な意味に留まるのでなく、どこかの瞬間で血を流しながらなお敵に後れを取った悲劇としてはじめて立ち現れるものである。その意味で、敗北に辿りつくための困難はときに勝利よりもはるかに険しい。昨年のロングビーチで佐藤が遂げた初優勝がそのキャリアの曲折に比してあまりにもあっさり見えたものだったように、勝利がともするとレースの海原に身を任せて漂流することでさえ得られるものでもあるのに対し、真なる「敗北」とは、流れる順番を受け入れるのではなく、杭にでも捕まるようにして抵抗し、そのうえで虚しく根こそぎ薙ぎ倒されるほかはないものなのだ。それはすなわち戦った証である。レースに自分を委ねるものに敗れる資格などない。

 敗北を厳選し意味づけなければならないのは、モータースポーツの、「今」によって引き起こされる情動がきっとほんとうの「敗北」が訪れる瞬間にこそあるからだ(昨年の最終戦がまさしくそうだったように)。たんなる勝利の裏返しではなく、勝利への意志が無残にも引き裂かれることではじめて出現する敗北を観戦者の特権として発見し称揚することで、われわれは貴重な燃料が怠惰のなかに消費されることを拒否し、レースに価値を与えるのだと信じることができる。そこには豊かな観戦場所があるだろう。モータースポーツを見る、語るとは、それを探す営みにほかならないのである。

 新しいシーズンの始まりで幸運にも、われわれはその瞬間を見つけ出すことができた。普通ならしばしば見られる度重なるクラッシュによるレース中断や激しい順位争いがほとんどなかったことは、開幕戦のためにインディカーがそれをよりわかりやすく浮かび上がらせたということかもしれない。2014年のセント・ピーターズバーグは、31周目ターン1~2のわずか数秒間によって、勝利と敗北を残酷に頒かつことになる。覚えていられる場面は少ないが、これだけ覚えておけば十分だろう。ターン1の進入でアウトからペンスキーが並びかけ、インサイドを守って一度は抵抗したA.J.フォイトが切り返しのターン2で悲鳴を上げる。勝敗を鮮やかに切り取るたった1回の交叉点で、ウィル・パワーは勝利し、佐藤琢磨はそれ以上に正しく、敗れたのだった。

佐藤琢磨が引き戻したインディカー、あるいは楕円の中に敗れるということ

【2013.6.15】
インディカー・シリーズ第9戦 ミルウォーキー・インディフェスト
 
 
 135周目にレースリーダーの佐藤琢磨が迫ってくると、その位置を走っていることには違和感を禁じえなかったほどスピードがあったはずのエド・カーペンターは、勝機の喪失を意味する周回遅れの淵から逃れようと背後のA.J.フォイト・レーシングに対して抵抗を試みた。シボレーエンジンはほんのわずかながらホンダに対してストレートに優位があったように見え、ミルウォーキー・マイルが低いバンクで構成される抜きにくいショートオーバルコースであることも相まって、カーペンターはハンドリングに優れるこの日の最多ラップリーダーの攻撃を何度となく跳ね返した。劣勢の溝を埋めるフルコース・コーションをひたすらに切望するそのディフェンスは、結局152周目に犯したアンダーステアによって大きな減速を余儀なくされたことで実らなかったものの、それでもじつに17周にわたってリーダーを抑えこむことになる。佐藤の側に立てば、ここで3~4秒のタイムを失ったことが、直接的ではないにせよ、レースの大部分で最速だったにもかかわらず最終順位は7位にとどまった一因となった。たとえばこの5分強の時間をミルウォーキー・インディフェストの結果を左右した出来事のひとつとしてとりあげることは、さほど難しくない。

 リードラップを主張するリーダーに対して、エド・カーペンターはポジションを譲るべきだったのか。そうだれかが非難まじりに問うたとしても、意味のあることだとはいえないだろう。カーペンターはインサイドを窺う佐藤へと車体を寄せてラインの自由度を奪い、おそらくスロットルを緩めたりもしなかったはずだが、また進路を直接ブロックする、いわゆるチョップと呼ばれるような挙動を見せることもなかった。場所がオーバルであるかぎり、1周分の差をつけられた相手に対する態度としてそれは厚かましくはあっても不当ではなく、レースは厚かましさだけを理由にドライバーを罰することはない。乱気流に過敏に反応してしまう佐藤の車はオーバーテイクに向いているとはいえず、カーペンターを自力で周回遅れにする術を見出せなかった。遅い車を勝負の圏外へと追いやるのをリーダー自身の責任とするならば、勝てるはずだった佐藤の最終的なポジションはそれを早々に果たせなかった失敗に対するささやかな報復を受けた結果にすぎない。そしてまた、その敗北は特別に悔やまれることですらない。同様にオーバルの勝利を逸してきた中途のリーダーはこれまでに何人もいた。インディカー・シリーズではよくある光景で――よくある光景? 無邪気にそう書いてしまうことを躊躇し、戸惑いに自覚的になる必要があるはずだ。あるべき景色をこそ拒みつづけてきた2013年のインディカーをだれが読むかもわからない文章で記録しておく意味があるとすれば、見られなくなってしまったそんな場面を丹念に拾い集めて書き留めることでしかないのだから。

 伝統のインディ500をトニー・カナーンが制し、エリオ・カストロネベスが(車両違反の裁定を下されながらも)ハイバンク・オーバルのテキサスを圧勝した。ロード/ストリートコースで荒れ続けたシリーズが一方でオーバルコースによって沈静化されるように揺らいでいることは、インディカーを作る原型がいまだ楕円の形をしていると示唆しているかに見える。このことが保守性の凝集を意味しているのだとすれば、ミルウォーキー・インディフェストで起こった何もかももまた、そこが最も古いレーストラックであるという歴史や、マイケル・アンドレッティがその情熱によってプロモーターを引き受けて開催を復活させた経緯にふさわしく、オーバルにとって、つまりはインディカーにとってありうべき出来事だったといえるだろう。それどころか、目の前にむき出しのポルノを置かれたかのごとく象徴的な場面を突きつけられて、あまりの露骨さに少しうろたえても不思議がないくらいだった。この日勝利に値したのは3人だけ、マルコ・アンドレッティとライアン・ハンター=レイ、それから佐藤琢磨で、ひとりは残念ながらトラブルのために降り、ひとりは実際に勝利し、ひとりはオーバルによって敗北した。昨季のチャンピオンが他を寄せつけないスピードを誇った最終スティントは、速かった事実を称えればよいだけだから、とりあえず措こう。それよりも、勝つべきドライバーのひとりがまさに楕円の中に敗れ去ったことをこそ、絶え間ない問い直しにさらされてきたインディカーの観察者は称揚すべきではないか。遠方の視線を意識した舞台俳優のように大仰な身振りで、見ているほうが怯むほどあからさまにオーバルの敗北のすべてを演じきってみせた佐藤琢磨をこそ。

 エド・カーペンターの抵抗によって5秒以上のリードを吐き出した佐藤琢磨は、直後のピットストップを終えるとふたたび後続を引き離したが、周回遅れの隊列に追いついた183周目に強いルーズに見舞われてクラッシュしかかった。リーダーの座を失いはしなかったもののすでに車はバランスを欠きつつあり、そこまで95周をリードしたスピードには翳りが見えはじめていた。A.J.フォイトのストラテジストであるラリー・フォイトがひとつの決断を下したのだとしたら、198周目にライアン・ハンター=レイにパスされたときだろう。それは賭けに近かったはずだ。200周目、だれよりも早く佐藤をピットへと呼び戻し、バランスを直すべくフロントウイングを調整してコースに送り出したとき、レースはグリーン・フラッグの状況下で行われていた。同じ条件で進行すれば最後には帳尻が合うと考えるのは楽観的だったかもしれず、やはりギャンブルに身を委ねるにはライバルのピットタイミングは遠すぎた。佐藤に追随するものはいないまま、はたして210周目、アナ・ベアトリスの単独クラッシュがフルコース・コーションを導いて、ほかのドライバーはスロー走行のなか悠々と最後の給油を行う。レースが再開された220周目に佐藤がいたのは、周回遅れの集団に囲まれた7番手の位置だった。

 最後のピットストップを通常どおりに行えなかったことは、それだけで弱さだったということはできる。だがカーペンターに引っかからなければ集団に追いつくタイミングも変わって、183周目のミスはなかったかもしれない。その2つの問題で合計10秒近い時間を失わなければハンター=レイの追撃はもう少し遅くなり、最後のピットをほかと揃うまで我慢することで1対1のリード勝負に持ちこめた可能性もまた高かった。いわばひとたび周回遅れを処理しそこねたことでミスが起こり、ピットのタイミングを狂わされ、コーションの罠に誘導された、佐藤琢磨が優勝を逃したのは、そういうレースによってだった。

 しかしこれほど正当で魅惑的な敗北がどのくらいあるというのか。ポルノのように露骨に、佐藤はオーバルでの負けかたを示しきった。すなわち弱者の抗力に翻弄され、緑の地平へとゆくりなく飛びこんでしまい黄に能わない――よくある光景だと書いたように、オーバルで負けるとは、オーバルで正しく敗者になるとは、そういうことなのだ。勝利に値していた佐藤はオーバルの構図の中に踏みこんでいくことでレースに敗れ、またその意味においてミルウォーキーで敗北に値したのは佐藤だけだった。実際、このレースをほかのだれが負けえただろう。表彰台に登ったエリオ・カストロネベスもウィル・パワーも、優勝したハンター=レイのチームメイトも、気づけば1桁の順位にいただけのチップ・ガナッシの2人も、敗れ去る資格などいっさいないまま、ただ自分の場所でレースを終えたにすぎない。最後のリードラップを構成した彼らの姿はほとんど不愉快なほどに頽廃的で、インディカーを掬いあげる役割を果たすことはなかった。ただひとり、オーバルの敗北すべてを――ありうべき形で、あからさまに――引き受けた佐藤だけが、その任を担ってみせたのだった。

 この結果が意味するところを探るとすれば、おそらくこういうことだろう。たとえば、佐藤琢磨を嫌いと公言してはばからないある人は、(それがいかなる角度においてもブロックではなかったというこの記事と共通の見解を有しながらも)エド・カーペンターの抵抗を「正義の鉄槌」として、インディカーを表象しない日本人ドライバーからシリーズを救ったと捉える立場が存在するだろうと述べる(「成長した三人。そして二人の面接官」『モタスポ板住民のまよいまいまい』2013年6月17日付)。だがそこに起きたのがあるべき姿の表出なのだとすると、カーペンターと佐藤は対立ではなくむしろ意図せぬ共犯関係にあったといわなければならない。佐藤は周回遅れに抗われた最速のリーダーとして、カーペンターは厚かましくリーダーをさえぎる弱者として、互いにインディカーの見慣れた光景を立ち上らせ、敗北をも演出した。頽廃に呑まれかけたこのレースを救ったのは一方的な正義の裁きではなく、2人が無自覚のうちに共謀した振る舞いにほかならない。そしてそこに象徴的な瞬間を見るのであれば、もう佐藤を異邦人として扱えるはずはないのだ。オーバルで負けるとはそういうことなのだと、もういちど繰り返すことにしよう。正しい敗者を放逐することなどできはしない。ロングビーチの勝利よりサンパウロの苦闘より、ミルウォーキーの軽やかな敗戦こそ、佐藤琢磨とインディカーの融和をなによりも証明したのだというべきなのである。

 このミルウォーキーは今後への示唆をあらわしていただろうか。車の性能がどうなるかなどわかるはずもないが、少なくとも精神性についてはそうだったと肯けよう。正しい敗者となったことで、佐藤琢磨は浮ついたトップ5でなく、正面のコンテンダーとしてインディカーのリストに載った。10月のフォンタナが終わったときにまさかポイントリーダーになっているとしても、われわれがそれに驚くべき理由はもはやたしかに減っているように見えると、いまはささやかに付け加えておくべきかもしれない。

佐藤琢磨のターン3は、シモン・パジェノーの初優勝のようなものだ

【2013.6.1-2】
インディカー・シリーズ第6-7戦 デュアル・イン・デトロイト
 
 
 今シーズン初の2レースイベントとしてベル・アイルで開催されたデュアル・イン・デトロイト(それがどうにも俗悪に見えるということを言っておくべきだろうか?)を、佐藤琢磨はおよそ何も得ずして終えた。シリーズ6戦目となるレース1はチームの燃料計算ミスによるガス欠でラップダウンの憂き目にあい、第7戦レース2では24周目のターン3でトリスタン・ボーティエにアウトから並んで進入した際にイン側の相手に右フロントタイヤを当ててしまい、反動で反対側のタイヤバリアへと流れてクラッシュした。イベント前には2位だったドライバーズランキングは2つのレースで21ポイントしか取れなかったことで6位へと後退し、チャンピオンシップで後れを取る結果となる。両レースともに後方グリッドから追い上げていたさなかのアクシデントであったことは惜しまれてよいが、それにしても意地悪い向きにはようやく佐藤琢磨らしくなってきたとほくそ笑むことくらいはできるかもしれない。率直にいえば、いくら好調でもやっぱりレースを失いやすいドライバーであることに変わりはないのだ。

 当の佐藤はレース2のフランス人ルーキーに対し、DNFに追い込まれたクラッシュそのものよりもレーススタート時の振る舞いについて強く怒りをあらわにしている(『ジャック・アマノのINDYCARレポート』2013/6/4)。自身も第4戦サンパウロでの執拗なディフェンスで物議をかもしたわけだが、たとえばそのとき他のドライバーから浴びせられた「俺がブロッキングだと思ったからブロッキングだ」といった程度の非難に比べれば、ボーティエが犯したらしい違反とそれに対して下されるべきだった措置を具体的に指摘する彼の言葉はすばらしく論理的だ。すなわち、スタート時にアウトサイドの並びだったボーティエは、最初のグリーン・フラッグ直前の、まだレースが始まっていないタイミングでインサイドにいた自分の前に割り込んできた。スタート前は2台がサイド・バイ・サイドで並んでいかなければならないにもかかわらず彼は加速してドアを閉め、ラインを失ってコンクリート・ウォール間際へと追いやられた自分はブレーキを踏まざるをえなくなった。この動きに対してはペナルティが科せられる必要があるはずだがスタート後にどれだけコクピットから訴えてもレース・コントロールのアクションはないまま、巡り巡って24周目、「本来ならそこを走っているべきではなかった」ボーティエ当人と接触して自分は必要のないリタイヤを喫してしまった、という顛末である。

 あくまで被害者側の証言なのでひとまず話半分に聞いておくのが公平ではあるとはいえ、語られている内容の整合性にはなるほど隙が見当たらず、本来ならレース・ストラテジストが発してもよさそうなレベルのコメントとさえいえる。実際に起こった(自分が観察した)現象とそれがどういう問題を孕むのかを的確に言語化してしまうこの技術は、レーシング・ドライバーとしてはなかなか得がたいものだろう。弁護士の息子として育ったことが関係しているのかどうか、そういえば2004年のバーレーンGPだったかラルフ・シューマッハと接触したときに滔々と自らの正当性を主張して相手にだけペナルティをプレゼントしたなんて過去があったのを考えても、これはF1時代からすでに備わっていた彼の生来的な能力なのかもしれない。言葉の端々に隠しきれない怒りこそ感じさせるが、少なくとも、危険な雨中のリスタートを強行したレース・コントロールに両手の中指を立てて抗議したまではよかったが逆に自分のほうが罰金を食らったウィル・パワーや、視線をF1に転じて無謀な追突をしてきたセルジオ・ペレスを「だれか殴ってやれ」と言ってのけたキミ・ライコネンに比べれば、ずいぶん理性的な反応ではないか(もっともふだん冷静なアイスマンのことだから、暴言にもきっと理由があるのだろう。酔っていたとか、アルコールを摂取していたとか、もしかして酔っぱらっていたとか)。

 おそらく世界を見渡しても、自分のクラッシュについてこれほど整合的な物語(ただ出来事を並べるのではなく、30分前の問題を遠因として挙げてしまうのである)を伝えられるドライバーはけっして多くない。その秀でた能力は疑うべくもないだろう。だがわたしがこの一件によって気づかされたのはむしろその正反対であろうこと、彼が長いトップフォーミュラのキャリアで数多のクラッシュを重ねてきた理由の一端だった。上の「すばらしく論理的」という記述には、実のところ皮肉がこもっている。ボーティエの動きを問題視するそのコメントはたしかに論理的なのだが、しかしまた論理的にすぎるのだ。一分の隙もなく紡がれた物語には、佐藤琢磨というドライバーがレースに対してある種の潔癖な理想を抱いていることを想像させる。考えてもみてほしい。ボーティエは「本来あそこを走ってるべきじゃなかった」(前掲リンクより引用)ドライバーで、佐藤自身は「いちゃいけない相手と」(同)レースをした。その説明が保身による自分勝手な解釈でないとすれば、まさしくそのとおりだろう。では、そんな「本来」「いちゃいけない相手」と、彼はなぜ、動機ではなく原因として、なぜ、接触することになったのだ? いつもながらのまわりくどい文章で核心を迂回しようというわけではない。答えは簡単だ。だとしても、ボーティエは現実にそこを走っていたのである。

***

 デトロイトのレース1を制したのはデイル・コイン・レーシングからスポット参戦したマイク・コンウェイだった。こういう結末を、わたしはかならずしも歓迎できたわけではない。2回にわたるオーバルレースでの大クラッシュで大きな怪我を負った経験を持つコンウェイは、そのためにオーバルレースを二度と走らないと決めた。オーバルを引退しただけでなく活動の拠点をヨーロッパへと戻したこのイギリス人は、にもかかわらずWECの片手間のようにデトロイトへとやって来て、呆れるほど速かった。それだけならまだしも、ひと月前のロングビーチではレイホール・レターマン・レーシングで参戦して、今回はデイル・コインなのである。「そこにシートがあるから」という以上の意味を見出せないまま走るドライバーに圧倒されては、乾いた拍手しかできなくなってしまってもしかたあるまい。結果を伝えるwebニュースが「コンウェイ今季初優勝」と書いているのにも陰鬱とさせられた。シリーズを争っていないコンウェイに「今季」なんてあるものか、ふらっと現れて優勝しただけだと言いたくなったりもするわけだ。

 もちろんそれはコンウェイの責任であるわけがなく、むしろ彼自身の振る舞いはインディへの郷愁にあふれているし、そのスピードには惜しみない賞賛を贈りたいと思う(べつに彼のことを嫌っているのではない)。2年前のロングビーチはほとんど運だけで舞い込んできたような初優勝だったが、土曜日のコンウェイに非の打ち所はなかった。愚痴っぽくなるのはあくまでインディカー・シリーズに対するこちらの心持ちの問題だ。本当ならウィル・パワーこそああいうレースぶりで圧勝しなければいけなかったのではと思ったところで結果が変わったりなどしないのだから、勝つべきではない(と信じ込んでしまった)ドライバーが勝ったといっても、現実がそうであるなら折り合うべきである。

 そんなふうに受け入れるのに一呼吸必要な現実があったことを思えば、翌日にもう次のグリーン・フラッグが振られたのだから、俗な金儲けにしか思えなかった2レースイベントにも一種の安定剤としての効果があったかもしれない。日曜日のレース2でもコンウェイのスピードに翳りはなかったが、終わってみればシモン・パジェノーがはじめて勝利する。序盤のラップリードこそコンウェイに制圧されたもののプライマリータイヤを履いた後半はどこまでも速く、フィニッシュでは6秒後方に封じてみせた。とくに第3スティントの終わりから最終スティントにかけてが初優勝のハイライトとして記憶されるべきだろう。最後のタイヤ交換後にダリオ・フランキッティに引っかかってタイムを失ったコンウェイの隙を見逃さずにプッシュし続けてピットワークでリーダーの座を奪い取ると、最終スティントではこの日最速だったはずのコンウェイと互角のラップタイムを刻んで、おなじ戦略でオルタネートタイヤを履いていた2番手のジェームズ・ジェイクスともども退けたのである。勝敗のキーとなるポイントで揺るぎなく速く走れる資質は、まぎれもなく一流ドライバーの持つそれだ。必要なときに必要なスパートを遂行することで、パジェノーは難しいレースを勝ちきった。彼は言う。「荒れたレースを冷静に、スマートに戦い抜いた」。

 ジェームズ・ヒンチクリフと佐藤琢磨に先を越されてしまったものの、昨季のルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得したパジェノーがインディで次に初優勝を果たすべきドライバーであることは明らかだった。しかしいまだ軸の定まらない混戦のシーズンとはいえ、その中でもやや戦闘力に欠けるシュミット・ハミルトン・モータースポーツでそれを遂げるのは、けっして簡単なことではなかったはずだ。トップチームに移ればすぐさまチャンピオンになれるという世間の評価はけっして大げさでない。わたし自身も、昨季あらゆるストリートコースでケータリングができそうなほど滑らかに縁石を踏むさまを見て、それだけでこのドライバーに勝利を与えることがインディカーの使命だと信じきってしまった(それは、F1で昔のセバスチャン・ベッテルに対して抱いた感情と同様のものだった)。逆転を生む戦術の遂行を可能にする高い技量によってその確信は証明され、デトロイトは幕を閉じた。

 わたしにとってレース1がどうしようもない現実だったとするのなら、レース2は理想がひとつが現われた瞬間だった。コンウェイの勝利には(彼自身の事情とは別に)失望を禁じえなかったが、それもパジェノーの初優勝によって回復してしまう。目まぐるしく相貌を変えるインディカー・シリーズで、デトロイトの2日間はちょうどうまいぐあいにコインの裏と表を1回ずつ出してみせた。ここからはわずかばかりの寓意を汲み上げることができそうだ。レースには現実もあれば、理想もある。あってはならないことを受け入れるべきときも、あるべきことが実現するときも、平等にやってくる。片方だけなんてことはない。

***

 佐藤琢磨は、トリスタン・ボーティエはそもそもその場にいるべきドライバーではなかったのだと言う。それが間違いのない事実だとして、ではそんな幽霊と接触して自分だけレースから退場することにいったいなんの価値があったというのだろう。たとえ認めがたいことだったとしても、現実にボーティエはそこを走っていた。にもかかわらず直角ターンでアウトから並びかけるというリスクの高い勝負で抜き去りにかかったドライビングをいま振り返ると、まるで、より多くのポイントを持ち帰ることではなく認めてはならない現実を解消することを唯一絶対の使命としていたようにさえ見えてくる。「そうあるべき」だった、ボーティエのいないレースを取り戻すためのサイド・バイ・サイドに殉じて、そのクラッシュは起きた。そしてそれこそが、佐藤琢磨が過ごしてきたキャリアそのものなのではないのだろうか。今にして、過去のクラッシュのうちのいくつかは今回と同様にして犯されてきたのではないかと思えてならなくなっている。

 すでに書いたように、ボーティエに対する佐藤の非難は論理的だ。だが同時に、それはあまりに論理的すぎ、正しすぎるという印象も与える。例にあげたバーレーンGPでの件でもそうだが、彼の理知的な振る舞いにはともすれば危うい過剰さがつきまとう。そこには彼の正しさ以外の事象が存在しないと言い換えてもいい。身勝手な論理での言い訳が巧みという意味ではなく、自分の正当性を正しく認識し、的確に抽出してみせられるということである。繰り返すがそれが特筆すべき能力であることに疑問の余地はない。

 しかし、と思う。ゆえにこそ、彼は自らの殉教者になってしまう。理知的でありすぎるために、心の奥底にある純粋な信念を理性が強固に補強して不可侵の無謬性をまとわせ、やがてもはや自分自身でさえ撥ねのけることができなくなっていく。"no attack, no chance"――その言葉どおり佐藤琢磨はいつも自分を貫いてきた。彼の中にはつねに理想があり、それは正しかった。だが、クラッシュという現実はその崇高さや強度とは無関係に、ひとりのドライバーが抱く理想を跳ね返すときがあるということなのだ。たとえば去年のインディ500のように。たとえば9年前のヨーロッパGPのように。あのときも佐藤琢磨の動きは完璧だった。それでも、彼の理想が描いたレーシングラインの先にはダリオ・フランキッティやルーベンス・バリチェロが理想を無に帰せしめる現実として文字どおり物理的に立ちふさがっていたのである。チェッカー・フラッグを受けることなくレースを終えると、突いてでたのは現実に呑み込まれる前に抱いていた理想と、それを妨げた相手の具体的な問題点だった。その物語は2013年にしたのとおなじように完璧で、やはり完璧でありすぎた。

 秘めたる理性に破綻がないからこそ正しく形作られすぎた信念によって、現実との折り合いがつきにくくなってしまう。佐藤琢磨の印象的なクラッシュは、彼の中にあるそんな齟齬からしばしば生じたのだと、今わたしはようやく悟ることになった。それがコインの裏表だった2レースイベントによって引き出されたのは、もちろん偶然ではないのだろう。ヨーロッパから気まぐれのようにやってきて勝ってしまうドライバーがいれば、待ち望まれた優勝をついに果たしたドライバーもいる。マイク・コンウェイの現実とシモン・パジェノーの理想を結んだ線上で、佐藤琢磨はリタイアした。きっとやむをえないことだ。理想だけが重たくなった歪なコインを投げたとしたら、反対側の現実ばかりが出るに決まっているのだから。

佐藤琢磨のラインと武藤英紀の絶句、それから象徴でしかない話

【2013.5.5】
インディカー・シリーズ第4戦 サンパウロ・インディ300
 
 
 テレビの前で聞いているかぎり、解説の武藤英紀は視聴者を意識して慎重に言葉を紡ごうとしているようだった。2008年のルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した、つい2週間前までインディカー・シリーズ日本人最高位という記録の持ち主だったこのドライバーは、自らが過ごした3年間の経験によって、それが罰則を受ける可能性がある走行であることを、レースの熱量を奪わぬように、また己の言及が実現しないことを望むように曖昧な言い方で口にした。72周目には「いまのブロッキングはちょっと……」と絶句し、そして翌73周目、「2回目ということで(ペナルティを)取られる可能性ありますね」と示唆している。下位カテゴリーからアメリカのレースにまみれてきた武藤の文化のなかに、それは育まれていない動きだったかもしれない。少なくとも、彼の知るアメリカはそれを許さないと直感したのだと想像することはできるだろう。サンパウロ市街地コースのバックストレートエンドで、佐藤琢磨が若いジョゼフ・ニューガーデンと開幕戦の勝者であるジェームズ・ヒンチクリフの攻撃を次々と凌いだときのことである。

 2010年のエドモントンでのレースで、インディカーはひとつの事件を引き起こした。チェッカーフラッグまで残り3周のことだ。フルコース・コーションが明けるリスタートの際、先頭を走るペンスキーのエリオ・カストロネベスはチームメイトのウィル・パワーに対し、インサイドのラインを徹底的に主張した。まだ2列リスタートが導入される前のシーズンである。パワーはカストロネベスの横に並んでいたわけではなく、あくまで真後ろから加速をはじめていた。左の最終ターンから右のターン1へ、幅の広いホームストレートを斜めに横切るのが本来のレコードラインだが、カストロネベスは後ろからの攻撃を警戒してまっすぐに進む。パワーは一瞬だけインサイドに未練を見せたものの、空間を見出せずすぐさまアウトへと飛び出した。懐へ飛び込むような意思を表現することは一切なく、速度を高く保ってターン1の進入でかぶせるように並びかけて、ペンスキーの2台はサイド・バイ・サイドのままエイペックスをクリアしていった。

 このバトルによってもたらされた結果が最終的にこの年のチャンピオンの行方をも左右することになるのだが、バランスを崩したパワーがスコット・ディクソンにインサイドを明け渡して3位に後退したレースの経緯は本題ではない。物議を醸したのは、襲いかかってきたチームメイトのラインを一度も潰さず、最初から最後まで一貫してインサイドを守り続けただけのエリオ・カストロネベスが、そのバトルから1分もしないうちにレース・コントロールにブロッキングの違反を取られて黒旗を提示されたことだった。原文を発見することができなかったが、当時のルールは大意として「後方から追ってくるドライバーのためにインサイドを空けなければならない」というものだったと記憶している。この規則を根拠に、過度なディフェンスをしたわけでもないカストロネベスはピットのドライブスルー・ペナルティを科せられたのである(実際には彼はその裁定を受け入れずに無視し、レース後にタイム加算の罰を受けた)。

 規則の解釈の範囲に収まるペナルティだったとはいえ、先行側の守備権利をほとんど認めないかのような規則がトップバトルに適用されたことはじゅうぶんに刺激的だったようで、インディカーは批判にさらされ、結局行きすぎだったことを認めるかのようにブロッキングについて見直しがなされている(注:条文が変更されたかどうかは調査できていない)。2011年のルールは「追ってくるドライバーのアクションに対して走行ラインを変更したり、追い抜きを防止・妨害するために通常と異なるラインを通ってはならない」(9.3.2)であり、さらに2013年には後半部分((must not) use an abnormal racing line)が削除されて「追ってくるドライバーのアクションに対して追い抜きを防止・妨害するために走行ラインを変更してはならない」(9.3.2)へと簡略化された。ずいぶん「レースらしく」なったように見える。現在レース・ディレクターを務めるボー・バーフィールドによれば、「自分から動いてラインを保持する場合はディフェンスできるが、他のクルマの動きに反応して動いたのならブロックできない」という解釈のようだ。

 その基準に照らして見れば、佐藤琢磨の走行は許容範囲にあったということだろう。サンパウロのバックストレートは完全な直線ではなく左・右・左にややうねっており、うねりのエイペックスをかすめるようにして直線的に走ったことで悪質なブロックのように見えただけではないか、と言ったのはインディ500に出場予定のライアン・ブリスコーだ。GAORAのブログでも同様の見解が示され、ブロッキングにはあたらないと結論づけられている(『こちらGAORA INDYCAR実況室』「ブロッキング判定」2013年5月7日付)。ただ論争があるのは事実で、佐藤とおなじホンダエンジンユーザーであるスコット・ディクソンなどはツイッターでのレース・コントロール非難が喧しい。この項で行為の是非や判断そのものに立ち入ることはしないが、いずれにせよ公的な結論はすでに出ている。「no further action」だ。

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 口ぶりから察するに、武藤英紀は低くない可能性で#14にペナルティが適用されると受け止めていたはずだが、視聴者や自身の期待、そして実際に下された裁定に反してそう思わざるをえなかったことと、彼が2010年にインディカーを去ったこととは、たぶん無関係ではない。それは武藤が直接的な体験や知識として2011年以降のブロッキングルールを知らないことを意味しているのではなく、変容するインディに呑まれていないということである。彼のなかのアメリカは佐藤のラインを許容しなかったかもしれないが、いまのインディはきっと、他ならぬ佐藤が2週間前の優勝に続いて先頭を走っていた事自体がその象徴なのだと言える程度には、彼の知るアメリカではないのだ。

 歴史家が未来からインディカー・シリーズを記述しようとしたとき、おそらく2010年はひとつの目印として旗を立てられることになるだろう。ブロッキングルール見直しの契機となった事件の発生のみならず、たとえば史上はじめてロード/ストリートコースでのレース開催数がオーバルコースを上回ったのもこの年であり、以降のインディカーは急速にオーバルレースの数を減らしてかつて対立したCARTのような相貌を見せるようになっていく。またたとえば(これがいかにも日本人による見方であることは承知のうえだが)、武藤英紀と佐藤琢磨が交叉したのも2010年だ。すなわち、ヨーロッパでもアメリカでもない場所を出身とした日本人のうち、アメリカでキャリアを構築しなおしたドライバーが去り、F1の表彰台までたどり着いたドライバーが現れて定着した年でもあったのである。アンチ・ヨーロッパだったアメリカのレースがヨーロッパへと融合していく過程――オーバルが全体の3分の1を割り込み、ブロッキングの適用条件が緩和され、佐藤が優勝を遂げ、F1と同一レイアウトとなるインディアナポリス・ロードコースでの開催が計画された2013年にいたるまでのインディカーの大きな流れが、2010年を境にできあがったと記すことはさほど困難ではない。

 武藤英紀がアメリカの空気を吸収してインディカーに上がってきたのに対し、佐藤琢磨は、ほとんど純粋にヨーロッパでのキャリアを積み終えた後に、「ホンダ」という共通項を手繰ってアメリカに移ってきた。その佐藤がインディのCART化≒ヨーロッパ化と軌を一にしてアメリカに適応していったのは、佐藤の視点からすれば偶然でしかない(それは彼の能力のなせる業だった)が、しかしインディカー側の視点に立てば示唆を発見することもできるだろう。インディカー・シリーズの起源をCARTではなくIRLに求めるなら、佐藤はラインナップの中でF1表彰台の経験とともに移籍してきた初めてのドライバーであり、ルーベンス・バリチェロがいた昨季を除けば唯一のドライバーでもある。昨季のサンパウロやエドモントンでの表彰台や先のロングビーチの優勝は、なにも「日本人」「アジア人」という冠を掲げなくとも、ヨーロッパで成功体験のあるドライバーがアメリカでも同等かそれ以上の成功を収めたという意味で、インディカーとF1が最接近した瞬間という意味で十分に歴史的な出来事だったのだ。インディカーはその変化の中で、佐藤琢磨の優勝を受け入れたのである。

 インディカーとF1は、そのどちらをも走りきった佐藤琢磨という存在を結び目として重なりあう場所を生もうとしており、その流れに逆らおうとするのは難しくなっている。たとえばサンパウロで下位に沈んだチップ・ガナッシのドライバー2人、ダリオ・フランキッティとスコット・ディクソンが、直接見たわけでもない佐藤のライン取りやそれにペナルティを科さなかったレース・コントロールを批判しているが、不調をかこつ彼ら自身の焦燥や苛立ちをひとまず措けば、ここには根底にオーバルとともに息づいていたアメリカの文脈があると受け取ることができる(もともとブロッキングの禁止は、接触が命の危険に直結するオーバルでこそ強い意味を持つものだ)。ルールブックの文言が変わろうとも、アメリカのレースはブロッキングを許さないはずなのだと、アメリカに生きてきたドライバーである彼らはそれを信じて皮肉めいた非難を口にしているわけだ。だが本当のところは、彼らの信念とは裏腹にアメリカがヨーロッパへ近づくなかでルールが――レースのルールのみならず、その精神のルールこそが――変わりつつあるにすぎない。オーバルでの事故で死亡したドライバーの名を冠したシャシーの誕生と同時に覇権を手放したことの意味を解していない彼らはそれに気づいていないだけだ。気づかないからこそ勝てなくなったのだということにも気づいていない。

 今は日本で走る武藤英紀にとってのアメリカもまた、佐藤琢磨のラインを許容することはないはずだった。だからこそ彼は実況席で何度もペナルティの心配を口にし、自分に言い聞かせるようにおなじ回数だけ「だいじょうぶだと思う」と打ち消したのである。だがその不安をよそにレース・コントロールは何らの動きも見せず、最終ラップの最終ターンにタイヤの限界からブレーキングの乱れた佐藤をクロスラインでオーバーテイクして勝利を奪い取ったヒンチクリフもフェアなバトルだったと笑顔を見せた。「異邦の他者」だったドライバーが優勝したロングビーチにインディカーとF1の接近を見て取ることができるのなら、このサンパウロは、元F1ドライバーの内にあるヨーロッパが許されたという事実によってまたひとつの歴史を築いたといえるのかもしれない。佐藤が決然たるラインでジョゼフ・ニューガーデンの攻撃を凌ぎきったとき、武藤英紀は言葉を失った。アメリカのドライバーとして生きた彼にとって自然な感情の発露だったはずのその絶句は、しかしそれが向けられた佐藤自身を象徴とするインディカーの変容を前にして、もはや文字どおり絶句のまま虚空へと消えていくほかなかったのである。

孤独な佐藤琢磨がたどりついた場所

【2013.4.21】
インディカー・シリーズ第3戦 ロングビーチGP
 
 
 もちろん、最初はダリオ・フランキッティについて書くつもりだったのである。1997年3月にCARTでデビューし、250戦目という記念すべきレースをロングビーチで迎えたスコットランド人が、これまでにボビー・レイホールとゴードン・ジョンコックを上回る31勝を挙げ、29回の2位を獲得し、29のポールポジション(これは今回のレースで30になった)と112度にも及ぶトップ10フィニッシュ(これも同様に今回積み重ねられた)を記録していることも事前に調べてあった。このインディカー史上最多チャンピオンドライバーが今年に入って不調に陥った原因がアシュレイ・ジャッドとの離婚の影響なのか単に避けられない衰えがついに訪れたのかは知らないが、しかし第3戦にしてようやく昨季のチャンピオンとロード/ストリートコースのスペシャリストを抑えて反撃の足がかりとなるポールポジションを得たことで、原稿の構想はできたも同然だった。それにしてもだ。どう転んでもそれなりにまとまった文章を書けるだろうと思っていたところで、こういう結末が待っていたりする。まったく別の話題に書き換えようとしている自分自身の心変わりをわたしは責めることができそうにない。佐藤琢磨が表彰台の頂点にたどり着いたそのレースの生中継を最初から最後まで漏らさず見て、まだ少し呆然としているのだから。

 思わず顔を覆いそうになったのは、73周目のターン8を立ち上がろうとしていたA.J.フォイト・レーシング#14のリアタイヤがほんの少しウォールに向かってスライドしたのを見た瞬間だった。チェッカー・フラッグとともに溢れる歓喜がすでに具体的な輪郭を伴いはじめていた時間帯に起きたちょっとした「事件」である。4番手スタートからグリーン・フラッグと同時にウィル・パワーを置き去りにし、23周目に全体的にマナーの悪かったこの日にあってこの上なくクリーンなパッシングでライアン・ハンター=レイを攻略した佐藤琢磨は、250回目のレースをリードしていた4度のチャンピオン経験者をピットワークで逆転すると、それから一度も先頭を譲ることなく優勝に向かって悠然とドライブしていた。最終スティントの開幕と重なった56周目のリスタートで、譲る義務があるにもかかわらず無意味に張り合ってきた周回遅れのチャーリー・キンボールが勝手に一人タイヤバリアに突き刺さっていったのを見届けると、第2スティントの終盤に差を詰めてきていたグレアム・レイホールを再び突き放し、攻撃のチャンスを一切与えなかった。もう10周以上にわたって独走が続いて、待ち望まれた初優勝のカウントダウンがコールされようかというころに、佐藤のリアタイヤはわずかに滑ったのである。

 聞こえるはずのないタイヤのスキール音が聞こえた気にすらなったほど過敏に反応したのは、佐藤琢磨のキャリアの中にあったいくつかの出来事が思い起こされたからだ。わたしは以前、彼を指して「証明されぬ才能」と書いたことがある。彼に他のドライバーよりも数多い「辿りつけそうだった瞬間」があり、そして今までそのどれにさえ辿りつけなかったことを表すつもりの言葉だった。凡庸なドライバーではない。チャンスを手繰り寄せるだけの煌めく才能を見せながら、しかしそれは一度たりとも結実することがなかった、そういう意味である。少し記憶を引き寄せただけでも、たとえば2004年F1ヨーロッパGPは最終盤にルーベンス・バリチェロのインを突いたが失敗し、アメリカGPで3位表彰台を獲得したもののチームの作戦ミスによってそれ以上の結果を失った。たとえば2010年のミッドオハイオでは予選3番手ながらコースを横切る芝刈り機と化し、たとえば2011年サンパウロではイエロー・コーション時の判断に泣き、アイオワではトップバトルの最中のアウトラップでスピンを喫して、たとえば2012年インディ500は――まだ記憶に新しい。

 一流ドライバーなら、もちろん同じくらい逸したチャンスはある。だがそれは勝利との表裏のうちに存在するものであって、何も得ずして失った数ばかりを指折り数えられるドライバーなどそうはいない。J.R.ヒルデブランドに何回チャンスがあった? 2011年インディ500ファイナルラップのターン4でセイファー・ウォールの餌食となった、あの1度きりだ。佐藤は何度も歓喜に手をかけては握りそこねてきた。それを知っているから、わたしはわずかなオーバースライドを看過できず全身に緊張を走らせたのだ。だが彼はそんな一人の日本人ファンの焦燥とは裏腹に、何事もなかったかのように――いや違う、見ているこっちが神経質になっていただけで、きっと本当に何事もなかったのだ――ターン8をクリアして、バックストレートであるイースト・シーサイド・ウェイへと加速していった。

 もし佐藤琢磨というドライバーに勝利するときが訪れるとして、わたしは、それは運によるものでも完勝でもなく、傷ついた接戦の先にあるのだろうとなんとなく考えていた。圧巻のレースはできそうにない。サバイバルレースで生き残っている可能性が高いとも思えない。生き死にを懸けて細いロープを渡ることに挑戦する勇気によってキャリアを重ねてきたドライバーだ。幾度死んだとしても、いつかバランスを崩すことなく駆け抜けるように渡りきってしまえるときが来るのではないか、そういう勝利しかありえないのではないかと思っていた。だがそういう浅はかなセンチメンタリズムをレースは受け入れたりしない。この日の彼はあまりに速かった。その背中を脅かすポテンシャルを持ったドライバーなど、コース上にありはしなかったのである。1周、また1周とラップが積み重ねられるたびに、後続との差はコンマ数秒ずつ、確実に開いていった。4度のグリーン・フラッグと1回のオーバーテイク。あったのはほとんどそれだけだ。A.J.フォイト#14は、傷一つなく美しいままだった。

 レース・ストラテジストのラリー・フォイトはレース後に言っている。"Takuma made it look too easy. It made me so nervous watching it out there."。たぶん彼は知らないだろう。佐藤の経歴を見届けてきた日本のファンは、きっと当事者であるはずのあなたの何倍も緊張していたし、その緊張は最後まで続いた。佐藤が残り2周となる79周目の半分に差し掛かるころ、20秒ほど後ろでオリオール・セルビアとトニー・カナーンがターン1でクラッシュして、レースに最後の波紋を投げかける。もう一度仕切りなおしがあれば、レイホールは限界までチャンスを窺うだろう。その可能性に怯えるには十分なほど、この日のレイホールの出足は速かった。だが冷静に考えれば2台の止まったマシンを片付ける時間があるわけもなく、リスタートの機会は訪れそうになかった。そのことを悟ってようやく、気持ちがほぐれていった。

 きっとだれが先頭を走っていたってインディはおなじように処理したにちがいない。だが見ている人間がそこに粋を見出すのだって勝手なはずである。壊れた2台がターン1のアウトサイドを塞いでしまっても、レースはフルコース・コーションにならなかった。80周目、ホワイト・フラッグを受けたA.J.フォイト・レーシング#14が事故現場の横をすり抜けていく。佐藤琢磨は一人だった。一人であるべき勝者だった。だから、ということにしておいてもいいだろう。レースはスローダウンされず、彼はターン2、3、4と、何周にもわたって繰り返されてきた一糸乱れぬ完璧なコーナリングをファイナルラップにも再現した。追いついてくる者がいるはずもなかった。そして、7周前に無用な心配をしたターン8を立ち上がったときのことだ。待ち望まれた初勝利が孤高とともにあったことを刻むのに十分な猶予が与えられたのが誰の目にも明らかになったその後に、ようやく、普通のタイミングよりいささか遅れて、終戦を告げるイエロー・フラッグは振られたのだった。

佐藤琢磨が戻ってきた表彰台

【2012.4.29】
インディカー・シリーズ第4戦:サンパウロ・インディ300
 
 
 26周目リスタートの攻防は1回のブレーキングで決着した。並走するウィル・パワーに加速のタイミングを外されて引き離された佐藤琢磨は、しかしターン1へのブレーキングポイントをどう見ても10mは奥にとり、慎重に止まろうとしたパワーをコーナー進入前に交わしきってレースのリーダーとなった。サイド・バイ・サイドにすら持ちこませない圧巻のオーバーテイクを完成させた瞬間、日本のモータースポーツ年表の2011年5月2日欄にひとつの項目が書き加えられるのだと確信されたはずだった。日曜のレースが中断されて翌日に延期されるほどの大雨に見舞われたサンパウロで、佐藤琢磨はだれよりも速く、勇敢で、勝利に値するドライビングを遂行していた。

 だが終わってみれば、このサンパウロは日本人にとっても「数あるインディカー・シリーズのなかの1レース」にすぎなくなる。リーダーとして迎えた次のフルコース・コーションで、チームはステイアウトを選択した。レースは規定周回まで届かず、2時間で終了することが確定していたから、チェッカーフラッグまでにもう一度コーションがあれば燃料は足りるという算段だった。それはリアルタイムでは妥当な判断にも思えたが、自分の力以外の状況変化に身を委ねるのはやはり最速のリーダーが採るべき戦術ではなかった。ギャンブルはレースに歓迎されず、あとは記憶のとおりである。あまりの混乱に辟易してみんな暴れる気が失せたのか、そろそろおとなしいドライバーしかコースに残っていなかったのか、残り30分ほどのレースは一転して上品に進行してしまう。グリーン・フラッグ・コンディションが途切れないままついに燃料は底をついて佐藤はピットインを余儀なくされ、追撃を再開したものの最後はオリオール・セルビアへのアタックを誤ってターン1をクリアできずにポジションを8位にまで落としたのだった。2日続けての徹夜で寝不足を通りこしていた日本のモータースポーツファンの意識はこうして睡魔とともに遠ざかることになる。年表に載せるつもりだった「日本人初のインディカー・シリーズ優勝」の項は、クリップボードに仮留めされたまま、ターン1の赤くペイントされたランオフエリアのどこかに置きっぱなしになった。

 あれから1年が経って、去年を再現する雨が今にも落ちてきそうなサンパウロの68周目、白と青に塗り分けられたレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングのマシンが、並走するダリオ・フランキッティとエリオ・カストロネベス2台のインサイドに飛びこんだ。それが佐藤琢磨だと気づくのにほんのすこしだけ時間を要したのは、狭い市街地の2列リスタートでトップ争いに目が向いていただけでなく、このカラーリングと彼を結びつける回路がまだじゅうぶんにできあがっていなかったからだ。深いグリーンに彩られたロータス・カラーのマシンを降り、ホンダエンジンを追うようにRLLへ移籍した佐藤は、前戦ロングビーチのファイナルラップでライアン・ハンター=レイのペナルティ行為によって弾き出されるまで3位を走行したのを除いてほとんどまともにレースをできていなかったし、悪い流れを引きずるようにこの大会でもトラブルによって予選を走れず、最後尾スタートに甘んじていた。まだ何かを成し遂げてはおらず、サンパウロも成し遂げるレースとは思っていなかったから、ポジションにふさわしい目配りをしていなかったのである。クレバーなピット戦略で5位にまで浮上し、さらなる上位の可能性を期待させるほどのスピードもたしかに持っていたものの、すくなくともこのフルコース・コーションが解除される直前の時点ではおおよそのレースで1人か2人くらいはいる「奇襲とそこそこの幸運によって上位に食いこんだドライバー」にすぎなかった。

 なるほど肝に銘じておくべきだろう。リスタートのグリーン・フラッグはいつだって佐藤琢磨のために振られるのだ。フランキッティとカストロネベスというリーグきっての名手どうしがターン1を奪い合おうとしているさらにその懐を、彼は勇敢に、深く深くえぐっていった。レコードラインを外れたタイヤはしかしロックすることなく路面を掴み、ドライバーのコントロールを受け止めてシケインの縁石をしなやかにかすめる。窮屈な左をクリアし右に切り返していくマシンが加速をはじめたときには、キャリア計40勝の2人から表彰台を奪い取るオーバーテイクが完了していた。

 佐藤琢磨はピーキーであることを好むドライバーである。ピーキーなマシンのドライブを好む、というのではない。彼自身が一心不乱に「ピーク」を見つめ、一気に登りつめようとして――あまりの急角度にしばしば転落する、そうであることにレーシングドライバーとしての意思をすべてささげているように思えるということである。彼のレースはしばしば情熱的であり、それはインサイドへの指向に象徴される。伸るか反るか、彼のレース人生を彩るのはつねにインへと切れこむ一瞬の情動だ。たとえばシケインでヤルノ・トゥルーリとクラッシュした2005年のF1日本GP、たとえばF1における日本人最高位に手が届きかけた2004年ヨーロッパGPターン1でのルーベンス・バリチェロとの接触、またたとえばF1時代唯一の表彰台となった同年アメリカGPで見せた、バックストレートエンドでのオリビエ・パニスに対するパッシング。間違っても「高速コーナーの手前で揺さぶりをかけてラインの自由度を奪い、外からかぶせて抜き去る」というような芸当が、実際のところはともかく、イメージされるようなドライバーではない。インサイドこそが佐藤琢磨の生きる場所であり、死に場所でもある。インへインへと飛びこんでいくから、自然とコーナリング角度は「急」になる。「ピーキー」なのだ。

 ピークは情動の頂点であり、また危険の頂点でもある。生き抜いてみればこれほど心震えるものもないが、モータースポーツは残酷に繊細だ。わずかでも越えてしまえば、その先の切り立った崖下にはリタイアの黒い淵が待ち構えている。その危ういピークを求め続けるのが佐藤琢磨のドライビングだと言っていい。以前に書いたこととも重なるが、佐藤琢磨はインサイドというピークに生きることで周囲の魂を揺さぶってドライバーとしてのキャリアを形成し、インサイドというピークで死ぬことで周囲の信頼を集めきれずにそのキャリアを不安定なものにしてきた。RLLの規模のチームでステアリングを握るいまの姿は、生き死にを繰り返してきた彼にとって自然な帰結でもある。最高の果実を求めて恐れず死地に赴く生き方はチャンピオンに切りかかっていくチームにこそふさわしい。はたして佐藤琢磨はそれを遂げた。フランキッティとカストロネベスは彼の深いブレーキングになすすべなく、重要なポジションを明け渡した。

 1年前の忘れものを探しに来てみれば、少しばかり褪せていたのかもしれない。3位に上がった後の残り5周で前を行くパワーやハンター=レイと渡り合えるスピードは出せず、昨年失ったものを取り返すチャンスは来なかった。4年ぶりにフルシーズンを戦うRLLは勇気を得ただろうが、もちろんこの結果ひとつでトラブルの多いチームの問題が解決するわけでも、また佐藤がミスのないドライバーに生まれ変わるわけでもないし、次こそは優勝だと息巻くほど楽観的になれるわけでもない。われわれ日本のファンが佐藤琢磨に成してほしいと願ったこと、彼自身が成したいと決意したことは、まだ達成されていない。

 だがそれでもなお、2012年4月29日のサンパウロ、68周目のターン1は記憶される必要があるだろう。われわれは、佐藤琢磨に夢を見て、F1から去ってもなお見捨てられなかった、その根源を知っている。だからあのパッシングが琢磨なのだと言いきることができる——ピークを追い求めるピーキーな琢磨だったからこそ、あの瞬間が訪れたのだと確信できるのだ。真に最高の結果ではなかったかもしれないが、これはたしかにひとつの到達点にちがいない。ひとつのコーナーで見せた1度きりの運動に、佐藤琢磨のキャリアすべてが凝縮されたのだから。

 F1のあのときから8年を経て、彼は表彰台へ戻った。シャンパンの栓の抜きかたは、どうやら忘れていたようだった。