なんて愛しい魔法使い

【2016.4.24】
インディカー・シリーズ第4戦 アラバマGP
 
 
 およそ1年前の2015年4月26日、ジョセフ・ニューガーデンはバーバー・モータースポーツ・パークにおいて人生でもっとも重要な2つのパッシングを完成させた。残念ながらテレビ画面にはあまり大きく映し出されていなかったように思うが、それは疑いなくモータースポーツでもっとも美しい光景のひとつだった。長いバックストレートから高速ターン11を通過し、右に曲がり込むブラインドのターン12を加速しながら立ち上がっていくとほんのわずかな全開区間の先にこのコース最大の難所が現れる。車速をわずかに落として右のターン13に進入し、スロットルを維持したまま続けざまにやってくる高速ターン14の横Gをまともに受けながら、いきなりRのきつくなるターン14aのクリッピング・ポイントに向けてブレーキペダルを踏みしめる。半径の異なる3つのターンで1組となるこの複合コーナーを通過するおよそ7秒間、ステアリングはずっと右に切り続けられている。速度を上げようとすれば車はドライバーが与えるフロントタイヤの舵角に抗って外へ外へと逃げていき、かと思えばいきなりリアタイヤのグリップが減じてカウンターステアを余儀なくされる場合もある。イン側へ寄っていこうとすれば速度を落とすしかなく、ドライバーは速度と距離のジレンマのなかで車をどうにか手懐けながら妥協点を探る。横からの荷重にとらわれて姿勢を乱さないよう、最後のブレーキングはあくまで繊細に。走行ラインの自由度はほとんどない。
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シモン・パジェノーはふたたび正しい資質を証明する

【2016.4.17】
インディカー・シリーズ第3戦 ロングビーチGP
 
 
 わたしの贔屓にするドライバーはジョセフ・ニューガーデンとシモン・パジェノーであるとさんざん書いてきている。かたや下位カテゴリーのインディ・ライツ王者を経て順調に米国でのレース人生を歩んでいるように見える20代前半のアメリカ人、かたや若手のころをチャンプカーとル・マンで過ごしてから本格的にインディカーへとやってきて、すでに中堅ないしベテランの域に達しつつある31歳のフランス人と、似たところを探す方が難しいくらいだが、唯一わたしにとって共通しているのは、どちらもあらゆる来歴を些事へと追いやるたった一度のコーナリングで心を奪っていったことだ。2015年ミッドオハイオの64周目、長い弧状の中速ターン12「カルーセル」でニューガーデンが曲線を微分するように駆け抜けていった姿や、2012年ボルティモア、多くのドライバーが高く築かれた仮設シケインをばたばたと乱暴に踏んでいるなか、パジェノーひとりだけが魔法でもかけたように姿勢を乱さず静謐に通過していったさまは、いまでもこのスポーツでもっとも美しい瞬間の映像として脳裡に再生される。当時のふたりはともに、高い評価は受けつつもまだ優勝経験のない多くのドライバーのひとりに過ぎなかったが、その須臾の間に消えていくコーナリングを目にした瞬間、遠からず勝利を挙げる日がやってくる、それどころかインディカーは自らの価値を示すために義務として彼らを勝たせなければならないとまで確信したものだ(少なくともニューガーデンに関しては、証拠として当時書いた文章を出すことができる)。けっして強豪チームに所属していたわけではなかったふたりはやがて本当に、それも複数の素晴らしい優勝を遂げた。パジェノーがセバスチャン・ブルデーを削らんばかりに自分のラインを主張して通算2勝目を引き寄せた2013年ボルティモア69周目のターン8、あるいはニューガーデンがペンスキーの2台を完璧に攻略した昨年アラバマのターン14は、彼らの忘れられない場面として追加された。わたしは自分の勝手な予感がこうもあっさりと的中した事実に信じられない心持ちとなり、半ば呆然とその表彰台を眺めていたのである。
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砂漠の落日にIRLの日々は消え去る

【2016.4.2】
インディカー・シリーズ第2戦 フェニックスGP
 
 
 フェニックス・インターナショナル・レースウェイでインディカー・シリーズのレースが開催されるのは2005年以来で、いまはNASCARへと転出したダニカ・パトリックが新人として走っていた年だというから、ずいぶん昔日のことになってしまったと懐かしくさえ思ったおり、ふとひとつの違和感を得て調べてみると、一年のうちでインディアナポリス500マイルより前にオーバルレースが行われるのも2010年まで遡らなければならないという記録に行き当たって、あらためて楕円に沿ってひたすら高速で回り続けるこの魅惑に満ちたレースがもはやすっかり姿を消してしまった事実を自覚させられるようで嘆息のひとつも漏らしたくなってくるのだった。オーバルの剥離はインディカーの、どう取り繕おうにも凋落と言うほかないほどの低迷と疑いなく軌を一にしており、インディ500を除けばどのレースウェイを見ても空白だらけの観客席に寂寥を覚えるばかりなのだが、11年ぶりに戻って来た、つまり郷愁と物珍しさを利用して人を集めるのに最適な条件が整っていたはずのレースでさえ復活を謳えるほどの客入りではなかったことに、もう手立てなどどこにも残っていないのだろうかと、日本のテレビ観戦者に過ぎず直截にはなんの貢献もできないくせをして身勝手にも憂鬱になる。結局のところNASCAR(わたし自身は熱心に見ているわけではないのだが)開催時の観客席と比べると差は歴然で、ホームストレートの目の前でさえ空席が目につき、ターン4や1にいたっては人影のほうが目立って見えるほどのありさまだったのだから、甲斐のない現状であることを否定するのは難しい。他のカテゴリー、まして米国で随一の人気を誇るストックカーと並べるのはさすがに酷で詮ないと振り払おうにも、今度は皮肉なことにGAORAがレース前に懐かしの映像として流した11年前のフェニックスに活気が溢れていて、今との落差が時の流れの残酷さを示してしまうのだ。見ているとその映像の実況でなぜか「IRL」と言われていたのが聞こえ、当時すでにシリーズは現在とおなじ「インディカー・シリーズ」に変わっておりIRLの名は運営統括組織として残っていただけのはずだが、とはいえ対抗するチャンプカー・ワールド・シリーズ(IRL分裂後、破綻したCARTを引き継いだシリーズである)もまだかろうじて息をしていて、なるほどたしかにIRLと口にしたくなるほどその面影が色濃く残っていた時期であったのかもしれない。「IRL=Indy Racing League」というなんとも中途半端な名称は、オーバルを毀損していたかつてのCARTに対するアンチテーゼとして「真のインディカー」を取り戻すべく蜂起するにあたり商標であったIndycarの名の帰属をめぐって法廷闘争が起こった末の妥協の産物に過ぎなかったのに、振り返れば名前を使えなかったIRL時代のほうが現在よりもよほどその精神が充足して見えてくるのだからやはり皮肉を感じずにはいられない。あるいは名乗れなかったからこそ純粋な姿を追い求めていられたのだとすれば、遠くから焦がれるときの理想がいちばん美しくようやく手にしたとたんに褪せてしまったのだから、これもまた皮肉である。2005年のインディカー・シリーズは14のオーバルレースと3つのロード/ストリートレースによって戦われており、IRL時代から続いた全戦オーバルの掟がはじめて破られた年だったが、シリーズの主体はまだ楕円の中にあった。それもいまや5つのオーバルと11のロード/ストリートに反転している。この間に源流をともにするCCWSは消滅を迎え、やがてインディカーの統括組織も改称されて「IRL」は完全に歴史上の単語へと移ろった。前回のセント・ピーターズバーグGPについて記した際、わたしはそのあり方がまったくといっていいほど変わらないといったわけだが、単一のストリートレースに目を向ければそう見えるという話であって、そこに時代という串を一本刺せば先端と根本はあまりに、懐古趣味と嗤われようと好ましくない形で違っている。11年。そういえば去年の5月にインディ500をその場所で観戦すべくインディアナポリス・モーター・スピードウェイに赴いたとき、観客席で隣り合わせになった地元在住の婦人はもう56年もここに通い続けていると話してくれたのだった。宿では43回目だと快活に笑う紳士にも会った。ふたりが愛しているのがインディ500なのかインディカーなのか、両者はともすると重ならない場合もあるので定かではないが、はたしてこの数年の間にさえ変わってしまったオーバルレースのありかたに、ふたりがなにか思うところはあるのだろうか。それとも、USACからCARTへ、CARTからIRLへ、2度のインディカー分裂と統合を直に見知っている生き証人として、それも歴史の中で受容すべき善悪の伴わない変化にすぎないと鷹揚に微笑むだろうか。
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シモン・パジェノーと佐藤琢磨のターン1、あるいはウィル・パワーは開幕の不在によって2016年の主役となる

【2016.3.13】
インディカー・シリーズ開幕戦 セント・ピーターズバーグGP

2016年の選手権で最初に記録された得点はウィル・パワーの1点だった。2年前の一度だけ佐藤琢磨にその座を譲った蹉跌を除き2010年代の開幕すべてを自らのポールポジションで彩ってきたパワーが今年も飽きることなく予選最速タイムを刻んだのだったが、これはあたかも、観客に対してインディカー・シリーズの変わることない正しいありかたを教えているようにも思えてくる。いわばこれは競争ではなく、そうあるべきものとして執り行われる儀式である。きっと、セント・ピーターズバーグの指定席を短気な童顔のオーストラリア人が予約することによって、はじめてインディカー・シリーズは一年の始まりを迎えるのだ。いつものウィル・パワー、いつものチーム・ペンスキー。予定調和の開会宣言。前のシーズンの終わりから数えて6ヵ月以上もレースのない時間を過ごしてきた観客にとって、そんな儀式めいた繰り返しの出来事は、空白を埋めてふたたびインディカーの営みへと戻っていくのにちょうどよい心地よさを抱かせる。これはわれわれの知っているインディカーなのだと。
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ファン=パブロ・モントーヤの憂鬱は運動と制度のあわいに広がる

【2015.8.30】
インディカー・シリーズ最終戦 ソノマGP

2015年のインディカー・シリーズにおける選手権制度の詳細が発表されたとき、それは明らかに歓迎されざる俗なやり方に思えた。いや、本来「俗」な観客にすぎないはずのわれわれがみな一様に首を傾げるような方策だったのだから、俗情と結託したとすらいえず、だれのためになるのかさえ不明な、冴えない発想だったにちがいない。実際、近年このうえなく迷走を続けるF1が採用し、そしてあまりに不評なため1回かぎりで廃止したような「最終戦の選手権得点2倍」という愚策に、まさかインディカーが1年遅れで追随しようなどとは思いもしなかったのだった。
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さよならジャスティン・ウィルソン、さよならその日常

【2015.8.23】
インディカー・シリーズ第15戦 ポコノ・インディカー500
 
 
本当なら、ポコノのトライオーバルについて書きたいことも書くべきことも山ほどあったに違いなかった。ミッドオハイオの後にレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングがいまだ信用に足るチームではないと記したのは単なる経験的な予感に過ぎなかったが、今にして思えばあまりに予言めいたその言葉ははかなく的中してしまい、チームはもっとも重要な局面で致命的な失敗を犯して選手権を遠ざけていく。2回目のピットで給油作業に手間取ったことで、直前まで5位を走っていたグレアム・レイホールは20番手の後方にまで下がってしまった。それさえなければトリスタン・ボーティエに内側から寄せられてスピンする必要もなかった。一事をもって万事を失うのはオーバルレースの常である。フォンタナでの給油ミスは軽い罰金を科せられるだけで済まされたが、二度目はなかった。書くべきこととは、たとえばそういう失意の果てにどう最終戦を戦うかという興味だ。
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グレアム・レイホールはたった一度のブレーキングで醜聞を忘れさせる

【2015.8.2】
インディカー・シリーズ第14戦 ミッドオハイオ・インディ200
 
 
 それが故意だったのかたんなる時宜にかなった偶然だったのかはすでに藪の中である。レース後の水曜日に出されたレポートにはいかなる処罰も記載されておらず、あらたな疑惑になりえた事件はレースにおいてありうべき出来事にすぎなかったとして幕が引かれた。公的な結論としてはそれ以上でも以下でもない。たしかにミッドオハイオの66周目に起きたセージ・カラムのスピンはあまりに「できすぎ」ていたように見える。ターン4の出口で彼が車の制御を失ったのは、選手権を争うチームメイトのスコット・ディクソンが最後の給油とタイヤ交換を完了したたった3周後のことであり、おなじころ、ポイントリーダーであり最近にしては珍しくレースの先頭を走っていたファン=・パブロ・モントーヤはまだ1回のピットストップを残していたのである。カラムが車を止めてしまったことによって導入されたフルコース・コーションは両者の差を無にし、そのうえ隊列が整ってからようやくピットに向かったモントーヤは12番手まで順位を下げて、最終的に11位でチェッカー・フラッグを受けた。「幸運」のおかげで4位に入ったディクソンのみならず、グレアム・レイホールまでもが漁夫の利を得て優勝した結果、レース前には40点以上の差があったはずの選手権争いは2戦を残してにわかに混沌としてきている。レイホールとモントーヤの9点差は、最終戦の得点が2倍に設定されていることを思えば、ほとんどないに等しい。
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4.5%のリーダーが選手権をリードしているならば

【2015.7.18】
インディカー・シリーズ第13戦 アイオワ・コーン300
 
 
 シーズンの残りを片手で数えられるような時期になると、レース単体の結果だけでなく選手権の行く末も気にかかるようになってくる。もちろんわれわれが見たいのはレースという運動であって、その順位の集積によって作り上げられた虚構の制度にすぎない選手権の得点に一喜一憂する理由もないわけだが、当事者であるチームやドライバーが制度の頂点を目標として定めている以上、その趨勢は往々にしてレースの強度へと跳ね返ってくるのだから、レースを「見る」ことに徹しているものとしても無関心ではいられない。選手権はレースと直接関係を切り結ぶわけではないが、状況に応じてレースの相貌をがらりと変えてしまう。それは時にチームの思考を混乱させ、ドライバーの精神を保守的に留めて手足を硬直化させ、あるいは過度に攻撃になるよう刺激したりする。おなじコース、おなじ勢力図であっても、時期が変わるだけでレースそのものが変質する可能性があるという感覚は、おそらくモータースポーツにかかわるあらゆる人間が共通して持っているはずである。
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おかえりにはまだ早くても

【2015.7.12】
インディカー・シリーズ第12戦 ウィスコンシン250

物質的な文房具であると同時に文字量を現す慣習的で不可思議な単位でもある「原稿用紙」の枚数に換算してwebの文章を量ることにさほど意味があるとは思われないものの、ともあれ毎週のように行われるレースについて金になるでもないのに10枚から書き続けてほぼ3年、数えたことはないがおそらく400字詰めにして700枚くらい積み上げ本の2~3冊にも届きそうな分量になればいいかげん新しく書くこともなくなってくる、などといった言い訳をするようになってはこのブログもそろそろ寿命が尽きかけているだろうなと自覚するのだが、せめて延命のためにおなじことを繰り返すのを許してもらうなら、気づけば20年くらい米国のオープン・ホイール・レースを見てきた身にとって、セバスチャン・ブルデーとはなかば哀愁をともなって口にしなければならない名前である。今回のウィスコンシンに優勝したことで歴代8位タイとなった34勝、33回のポールポジション、選手権4連覇と「輝かしい」実績は一見すると目が眩まんばかりだが、近寄ってよくよく磨いてみるとどうやらその光は少々鈍いようにも感じられる。知ってのとおりその成績のほとんどすべてが米国チャンピオンシップ・カー・レーシング分裂の歴史の中で滅亡したチャンプカー・ワールドシリーズで記録したもので、ブルデーが王者になった2004年から2007年はその最後の4年、つまり没落する王朝の最後の支配者だったのである。彼がチャンプカーにいたのはすでに多くの有力チームがインディカー・シリーズへと戦いの場を移した後のこと、そこで勝ち続けることがどれだけ才能を証明してくれるのかはわからなくなっていたころだ。チャンプカーが消滅し生まれ故郷の欧州へ「実績」を引っさげて戻ったF1でのキャリア構築はセバスチャン・ベッテルという強力すぎる同僚を前にして失意のまま終わり、ふたたび米国へ、今度はインディカーのドライバーとしてやってきたときには満足なシートが残っているとは言い難かった。チャンプカー時代には相手にもしていなかったウィル・パワーが有力チームのペンスキーで活躍するようになったことを思えば、回り道が過ぎたのだろう。スーパーリーグ・フォーミュラなどという今となっては歴史の徒花でしかないようなカテゴリーにさえ参戦したのは、傍目にはどうしても時間の無駄遣いに見えてしまう。人生の選択が少しずれて2008年にインディカーの新人として走っていれば、といっても詮ないことだしその架空の別世界なら成功が保証されたとも約束されるものではないが、2011年にあれほど苦労せずに済んだだろうかとも思わずにいられない。いくらドラゴン・レーシングの戦闘力が貧弱極まりないものだったとはいっても、復帰してからのブルデーは、チャンプカーの栄光が幻だったかのように、決して速いとは言えず、クレバーでもなく、ときどきつまらないミスでレースを失う程度のドライバーにすぎなかった。それも2年以上、状況の変化や不慣れを理由にできる時間が終わってもなお、そうだったのだ。
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危機に瀕したときに問わなければならない

【2015.6.27】
インディカー・シリーズ第11戦 MAVTV500
 
 
 一度も足を踏み入れた経験がないにもかかわらず、1999年10月31日に起きた不幸なできごとによって、わたしはフォンタナという土地の名前をけっして忘れられないものとして記憶しつづけている。将来を嘱望されていたCARTの若手ドライバーだったグレッグ・ムーアの身に降りかかった災厄は、日本に住むひとりの高校生がはじめてモータースポーツで喪失感を抱いた事件でもあった。それはずいぶん身勝手な感情の現れ方だったといえるかもしれない。その5年前にF1を襲ったローランド・ラッツェンバーガーとアイルトン・セナの事故死も、1996年にインディアナポリス500でポールシッターだったはずのスコット・ブライトンが永遠にスタートできなくなってしまったことも、同じ年にCARTトロントでジェフ・クロスノフの車が二つに裂けてしまったことも、またフォンタナのほんのひと月前にゴンサロ・ロドリゲスがラグナ・セカのコークスクリューに散ったことも、誤解を恐れずいえば流れてくる一つのニュースに過ぎなかったのに、まだ24歳だったムーアの突然の死だけが、心に大きな穴を穿っていったのだった。わたしはあのとき、自分の英雄を失う最初の経験をした。
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