インディカーの勝者は必然と偶然の交叉点に立つ

【2016.7.17】
インディカー・シリーズ第12戦 インディ・トロント
 
 
 インディカー・シリーズのレースはその構造ゆえに論理の積み重ねにを断絶すると書いたのはつい先週のことだ。ゆくりなくやってくるフルコース・コーションが隊列を元に戻してあたかもさいころが振り直されるように展開が変わり、最後には大なり小なり偶然をまとった勝者を選び取る、そこにはスタートからゴールまで通じた一貫性のある争いが存在しないというわけである。もちろんこのことは競技者の努力がはかない徒労であることを意味するものではなく、賽によって翻弄されることを前提とした正しい戦いは存在する。周回を重ねる過程において、強い競技者は賽の多くの面を自分の名前に書き換えていき、弱者はやがてあらゆる面から名を消されて勝利の可能性を剥奪される。スタートから積み木をひとつずつ積みあげるようにレースを作っていくのではなく、そのようにしてレースを決定づける賽を偏らせようとするせめぎあいに、インディカーの特質はある。最後の最後に運に身を委ねなければならない事態がありうると知ったうえで、せめてその確率を支配しようとすること。必然と偶然が交叉する場所に、インディカーの勝者は立っている。
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勝者は正しい中からしか選ばれない

【2016.6.4-5】
インディカー・シリーズ第7-8戦 デュアル・イン・デトロイト
 
 
 土曜日のレース1で42周目にフルコース・コーションが導入されたとき、ポールシッターにして、そこまで倦怠的ですらあるほど完璧だったシモン・パジェノーが最後の給油へと向かったのは自然な成り行きで、当然の正解であることを信じて疑わなかった。そのときチーム・ペンスキーは4位までを独占する態勢を築いてレースを支配しており、パジェノーとともに2番手のウィル・パワーと4番手のエリオ・カストロネベスを同時にピットへと呼びこんだのは同僚と公平に勝負させるためで、雨が降ってくることも予想されていたなか3番手のファン=パブロ・モントーヤをステイアウトさせ、チームとして安全に勝利を取りにいったのだろうと受け止めたものである。もちろん優先されるのはレースと選手権でともに首位をゆくパジェノーであって、その存在を中心に据えて取るべき行動を機械的に決めていけば作戦はなかば必然的に決定する、ペンスキーにとってはそういうレースだったはずだし、最後のスティントはそんな最速チームの仕上げをあくびを噛み殺しながら見ていればいいように思えた。パジェノー、今季4勝目おめでとう。近年まれに見るハイペースでの勝利は選手権を大きく引き寄せたのだと、そういう結論なのだろう。あるいは、もしかするとパワーがちょっとしたいたずらをしかけるくらいの波瀾はあるのかもしれない、とその程度だった。
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シモン・パジェノーは内在する均衡によって選手権に近づく

【2016.5.14】
インディカー・シリーズ第5戦 インディアナポリスGP
 
 
 このインディアナポリスGPでの完璧な勝利を見れば、どうやらシモン・パジェノーの能力は歴然としている。ポールポジションから無理にタイヤと燃料を使うことなく自然に後続を引き離してラップリードを重ね、途中でフルコース・コーションを利したライバルに先行を許すものの、相手がピットに入った瞬間から一気にペースを上げて事もなげに失地を回復する。最終スティントでは適切な差を作って相手に隙を与えず、何事も起こらないよう静かに静かにレースを閉じる。唐突なコーションによってレースがリセットされることを前提とするインディカー・シリーズではいちばん勝率の高い完璧なやり方で、パジェノーは100回目のインディアナポリス500に向けた2週間の開幕を彩った。書いてしまえばこれ以上なく簡単な展開だったが、しかしこうしたレースを実現させるのはもっとも難しいものだ。速さ、冷静さ、正しい判断、適度な抑制と解放のすべてを高い水準で備えるドライバーがいてはじめて、感嘆と退屈の入り混じった溜息が出るような週末は目の前に現れる。
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シモン・パジェノーはふたたび正しい資質を証明する

【2016.4.17】
インディカー・シリーズ第3戦 ロングビーチGP
 
 
 わたしの贔屓にするドライバーはジョセフ・ニューガーデンとシモン・パジェノーであるとさんざん書いてきている。かたや下位カテゴリーのインディ・ライツ王者を経て順調に米国でのレース人生を歩んでいるように見える20代前半のアメリカ人、かたや若手のころをチャンプカーとル・マンで過ごしてから本格的にインディカーへとやってきて、すでに中堅ないしベテランの域に達しつつある31歳のフランス人と、似たところを探す方が難しいくらいだが、唯一わたしにとって共通しているのは、どちらもあらゆる来歴を些事へと追いやるたった一度のコーナリングで心を奪っていったことだ。2015年ミッドオハイオの64周目、長い弧状の中速ターン12「カルーセル」でニューガーデンが曲線を微分するように駆け抜けていった姿や、2012年ボルティモア、多くのドライバーが高く築かれた仮設シケインをばたばたと乱暴に踏んでいるなか、パジェノーひとりだけが魔法でもかけたように姿勢を乱さず静謐に通過していったさまは、いまでもこのスポーツでもっとも美しい瞬間の映像として脳裡に再生される。当時のふたりはともに、高い評価は受けつつもまだ優勝経験のない多くのドライバーのひとりに過ぎなかったが、その須臾の間に消えていくコーナリングを目にした瞬間、遠からず勝利を挙げる日がやってくる、それどころかインディカーは自らの価値を示すために義務として彼らを勝たせなければならないとまで確信したものだ(少なくともニューガーデンに関しては、証拠として当時書いた文章を出すことができる)。けっして強豪チームに所属していたわけではなかったふたりはやがて本当に、それも複数の素晴らしい優勝を遂げた。パジェノーがセバスチャン・ブルデーを削らんばかりに自分のラインを主張して通算2勝目を引き寄せた2013年ボルティモア69周目のターン8、あるいはニューガーデンがペンスキーの2台を完璧に攻略した昨年アラバマのターン14は、彼らの忘れられない場面として追加された。わたしは自分の勝手な予感がこうもあっさりと的中した事実に信じられない心持ちとなり、半ば呆然とその表彰台を眺めていたのである。
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シモン・パジェノーと佐藤琢磨のターン1、あるいはウィル・パワーは開幕の不在によって2016年の主役となる

【2016.3.13】
インディカー・シリーズ開幕戦 セント・ピーターズバーグGP

2016年の選手権で最初に記録された得点はウィル・パワーの1点だった。2年前の一度だけ佐藤琢磨にその座を譲った蹉跌を除き2010年代の開幕すべてを自らのポールポジションで彩ってきたパワーが今年も飽きることなく予選最速タイムを刻んだのだったが、これはあたかも、観客に対してインディカー・シリーズの変わることない正しいありかたを教えているようにも思えてくる。いわばこれは競争ではなく、そうあるべきものとして執り行われる儀式である。きっと、セント・ピーターズバーグの指定席を短気な童顔のオーストラリア人が予約することによって、はじめてインディカー・シリーズは一年の始まりを迎えるのだ。いつものウィル・パワー、いつものチーム・ペンスキー。予定調和の開会宣言。前のシーズンの終わりから数えて6ヵ月以上もレースのない時間を過ごしてきた観客にとって、そんな儀式めいた繰り返しの出来事は、空白を埋めてふたたびインディカーの営みへと戻っていくのにちょうどよい心地よさを抱かせる。これはわれわれの知っているインディカーなのだと。
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ターン6が覗かせたインディカーの可能性

【2014.6.28-29】
インディカー・シリーズ第9-10戦 ヒューストンGP
 
 
 モータースポーツの置換不可能な単独性が、スタートからフィニッシュまでを最も速く走るために合理化された高度な反復にあるのだとすれば、レースの未来は反復を乱すあらゆるありふれた事件によって差異化されるのだ、と言うことが可能かもしれない。その過程で仮に「ありえたかもしれないもう一つの未来」といったものを想像するならば、たとえばヒューストンの2日間は酷似したふたつの事故を並べることで、レースにありうべき可能性を実際に出現させてみせたのだと思えてもくる。
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インディはどこから来たのか、インディは何者か、インディはどこへ行くのか

【2014.5.10】
インディカー・シリーズ第5戦 インディアナポリスGP
 
 
 RACING-REFERENCE.INFOによれば、1914年にRené Thomas(カタカナならレネ・トマと書けばいいだろうか)というフランス人が「インディアナポリス500マイルレース」、いわゆるインディ500を制したらしい。この年はドラージュとプジョーを駆るフランス勢が200周のうちじつに198周にわたってレースをリードし、最終的に4位までを独占したとされている。4位に入ったのは前年にはじめてのフランス人優勝者となり、連覇を狙っていたにちがいないJules Goux(ジュール・グーと書いておこう)である。ポール・ポジションの周回が88.31mph、レース平均速度が82.47mphを記録したレースで、トマは3万9750ドルの賞金を手にしている。第一次世界大戦の戦端が開かれる少し前、5月30日土曜日のことだ。勝者がヴィクトリー・レーンで牛乳を飲む習慣はまだなく、歓喜の場でトマがなにをしていたのかは知る由もない。

 また2014年5月10日のやはり土曜日に行われたレースでは、最終スティントが燃費とスピードの二極に分かれる緊張感漂う展開となった末に、豊かな才能に溢れるシモン・パジェノーがその真骨頂たる繊細な運転で残りわずかな燃料を使い切り、先頭を守ったままフィニッシュラインまで車を運んだ。すぐにでもチャンピオン候補の表に名前を書き入れたくなる30歳はそのレースの初代優勝者として名前を記録されるとともに、ちょうどぴったり1世紀を経て、米国モータースポーツの聖地に3つ目となるフランスの足跡を刻んだ。そう、「Grand Prix Of ――」、パジェノーが制したレース名には、インディ500の場所である「Indianapolis」が、はっきりと記されている。

 開業当初レンガによって路面が作られていためにブリックヤードの愛称がついていることで知られるインディアナポリス・モーター・スピードウェイ(IMS)で、「インディ500ではないレース」の開催を計画している、という報道にはじめて接したのは昨年の4月から5月にかけてだったと記憶しているが、当初はそれがインディカー・シリーズの蹉跌になりうるように思えたものだ。少なくともここ四半世紀のインディカーを巡る流れを攫ったことがある者にとっていくばくかの寂寥感を抱かせるニュースだったことはたしかで、インディ500の価値がオーバルコースを逆走するロードレースによって汚されるような、大げさに言えば侵されてはならない精神がまさにその守護者であるはずの存在によって踏みつけられたような失望がそこにはあった。実際にはインフィールド区間の形状が違ったものの、はじめのうちは2000~2007年に行われていたF1アメリカGPとおなじレイアウトを使うと伝わっており(これは仮の計画として報じられていたのか、自分の早とちりだったのか定かでない)、タイムの差が露骨に、もちろんF1のほうが速い形で現れてしまうだろうことも懸念材料だった。

「インディ500ではない」IMSのレースに対する不安がどうしても拭いきれなかったのは、かならずしもこの計画によって現状が変更されることへの子供じみた抵抗感だけが理由ではなく、それが近年のインディカーの変容をそのままなぞる形で、かつての悪しき歴史へと回帰していく道を想起させてしまうからだった。当初オーバルレースしか存在しなかったはずのインディカー・シリーズはNASCARの人気に押されるなどして観客動員数が伸び悩み、近年は毎年のようにロード/ストリートレースを増やしてきたという背景があった。2010年代にオーバルの比率が全体の3分の1となったその潮流に、だからインディ500を抱えるIMSまでがとうとう呑まれてしまったのだろうというのが、「インディ500ではないレース」に納得するもっとも自然な解釈のはずだったのだ。それが意味するのはあきらかにアメリカからヨーロッパ的なレースへの運動であり、そしてそこにこそインディカーを巡る憂鬱が存在した。周知のとおりインディカーは、米国のオープン・ホイール・レースは、かつて実際にヨーロッパへ接近する過程で、真っ二つに引き裂かれた歴史を経験しているのだから。

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 そもそも、とあえて原点に戻ることは意味のないことではあるまい。つまり、「インディカー」とは何なのだろう。その名前から連想される第一の答えは、もちろん「インディ500を走る車」の意である。もともと、オープン・ホイール・カーで争われる米国選手権の総称は「チャンピオンシップ・カー・レーシング」であり、1997〜2008年に使われていたチャンプカーの名前もそれに由来する。1905〜1955年の大会がAAA Championship Car(AAA=American Automobile Association、アメリカ自動車協会)、1956〜1978(または1984)年がUSAC Champion Cars(USAC=United States Auto Club、米国自動車クラブ)だったことから推測されるように、インディカーは当初から定められたものではなく、米国レース史に君臨するインディ500の存在感に寄り添って自然発生的に生まれてきたものであり、きわめて象徴性の高い言霊のような名称である。規格の最高クラスであればFormula 1がどんな形であっても概念的にはFormula 1でありうるのに対し、インディカーはその名前ゆえにインディ500とともにしか生きられない、とも言えるだろう。実際、後の歴史においてそれはなかば現実化する形で証明されることになる。

 インディカーの起源についての探求は一介のアマチュアの手に余るので専門家に委ねたいが、1979年にCART(Championship Auto Racing Teams)のシリーズが始まった(より正確には、初年度の1979年は上部団体の認可が降りずSCCA=The Sports Car Club of Americaの名を借りて開催している)ころには、インディカーの名前は広く使われており、1980年から選手権も「インディカー・ワールド・シリーズ」として知られていた。ただ、それが実体的な価値を有するようになったのは1992年、IMSが「インディカー」の商標権を獲得したときだろう。このあたりの事情については詳らかにしないものの、商標を得(ようとし)たのがCARTではなくIMSだったのには、インディカーの名称の源泉がインディ500にあることと、CART発足時の混乱のため、当時シリーズを統括するのがCARTでありながらインディ500だけはUSACが運営していたといういびつな状況が関係しているのかもしれない。いずれにせよこれを境に「インディカー」は独占的な商業権利となり、ある意味では象徴性よりも具体的利益にかかわるものとしてFormula 1と同質の名称となる。そしてそのことが結果として将来の状況を複雑にしてもいくのである。
 
 
 1990年代に起きるインディ500を中心としたチャンピオンシップ・カー・レーシングの分裂を見る前に、欠かすことのできない一方の主役であるCARTについてさらっておこう。元を正せばCARTはUSACから分裂する形で生まれた団体であるが、その誕生にいたる背景にはUSACの運営能力不足に起因するレース界の停滞があったようだ。当時の選手権は全国的に開催されるとはいっても広汎な人気を獲得していたとは言えず、インディ500を除けばまったく注目を浴びることのないイベントだった。インディ500を全米トップクラスの祭典に成長させたのはIMS社長のアントン・ハルマンだったが、彼がUSACの創設者でもあり、オフィスもインディアナポリスに構えていた弊害なのかどうか、USACじたいがIMSにしか関心を払わない組織で、その他のサーキットとの連携は弱く、影響力も小さかったという。インディ500以外は雀の涙ほどの賞金しか支払われず(ふたたびRACING-REFERENCE.INFOを引くと、たとえば佐藤琢磨が所属するチームのオーナーとして日本人にもよく知られるA.J.フォイトは、1977年に4度目のインディ500優勝を果たした際に25万2728ドルを得ているのに対し、同年オンタリオ優勝時にはそのたった6%の1万5369ドルしか受け取っていない)、テレビ中継がないのはもちろん、観客を呼びこむ努力すらなされなかった。各サーキットの経営者やプロモーターの思惑がそれぞれバラバラで勝手なレース運営を繰り返すにもかかわらずUSACにはそれを止める力も意思もないなど、およそ一貫性を欠いた、インディ500さえあればそれでいいといった名ばかりの選手権だったようだ。人気がないのは当然のなりゆきだったのだろう。

 リーダーシップを発揮できないUSACに対しレーシングチームのオーナーたちは不満を募らせていたが、1977年10月にハルマンが死去するとそれははっきりとした形をとり始めた。現役時代にF1で3勝、NASCARで5勝を上げ、インディ500でも2度の2位を記録したダン・ガーニーは、イーグルのオーナーを務めていた1978年初頭、他のオーナーたちに向けて、のちにGurney's White Paperと呼ばれることになる手紙を宛てている。かつて苦境に陥っていたF1がコンストラクターたちによってFOCA(Formula One Constructors Association、現在のFOAの源流にあたる)を組織し、最高権力者として据えたバーニー・エクレストンに絶対の忠誠を誓うことで商業的成功を収めた事例を引き合いに出して、レーシングチームばかりが費用を負担しているUSACの現状を改善するため、レースの当事者たるチームが積極的に運営をサポートすることで参戦コストを低下させながら大会を盛り上げ、観客の増加、テレビ放送の拡大、スポンサーの獲得によって利益を得て、公平に分配するべきだと訴えたその手紙には、来るべきオーナー組織の呼称もまた記されていた。〈Let's call it(the organization) CART or Championship Auto Racing Teams〉――おそらく、これこそCARTの初出である。レーシングチームの選手権というガーニーの構想に共鳴したチームオーナー(そのうち一人が、いまもチーム・ペンスキーに君臨するロジャー・ペンスキーだった)たちは、その年の夏のうちには結集している。

 折悪しく、USACはハルマンの死去からわずか半年後の1978年4月23日にインディアナポリス郊外で発生したプライベート機の墜落事故によって副社長や技術責任者をはじめとした主要メンバー8人を失っており、組織に空白が生じていた。そのせいもあってか、CARTとUSACの交渉はどうやら不調に終わったらしい。11月に要求が拒否されるとCARTはすぐさま自らレースを開催するべく動いた。有力オーナーによって組織され、A.J.フォイトなど発言力の強いドライバーがその趣旨に同調していたことも手伝ってCARTは各サーキットの支持を取り付け、独自シリーズの構想は滞りなく現実化していく。前述のとおりACCUS(Automobile Competition Committee for the United States、米国自動車競争委員会)の承認が得られず体裁上はSCCAを借りることにはなったものの、1979年3月11日にアリゾナではじめてのCARTレースが「インディカー」のシリーズとして開催され、USACで20勝を重ねた42歳のゴードン・ジョンコックがまったく新しい勝利を手に入れた。この年行われた21の選手権レースのうち、CART傘下のものはすでに14にのぼっていた。

 主導権争いに敗れたUSACも1984年までCARTに対抗して選手権を開催していたものの、もはや趨勢は明らかで、チャンピオンシップ・カー・レーシングの実質的な担い手はCARTと言っていい状況になった(ただしUSACはインディ500の運営だけは手放さず、その二重体制は結局CARTからインディ500が失われるまで続いた)。そしてCARTは少しずつ、USACを引き剥がすかのように相貌を変化させていく。

 もともと1970年にUSACがロードレースとダートトラックレースを整理してオーバルに一本化していたため、CARTの始動当初もロードレースの開催は少なく、オーバル比率は1979年に13/14、1980年9/12、1981年9/12ときわめて高い水準にあった。またドライバーはほぼアメリカ人で占められ、外国人の顕著な活躍はオーストラリアのジェフ・ブラバムが1981年にロサンゼルスでポール・ポジションを獲得したのと、翌1982年にメキシコのヘクトル・レバクがロード・アメリカで優勝した出来事ぐらいしか認めることができない。その意味で当初のCARTはあくまでUSACの延長上にある、かなり保守的な(いかにも米国的な)相貌の選手権だったということだろう。古き善き時代というものを懐かしむとしたら、人によってはこの頃かもしれない。

 そのような状況から最初の変化が起きたのは1983年で、全13レースのうち6レースがロードコースで行われてオーバルの重要度が一気に低下するとともに、F1経験を携えてきたイタリア人のテオ・ファビがいきなり6回のポール・ポジションと4勝を上げる活躍でシリーズ2位に食い込み、新人賞を獲得している。5点差で辛くもチャンピオンとなったアル・アンサーは2位4回ながらわずか1勝しかしていないから、米国のファンにしてみれば勝った心地はしなかったことだろう。ファビは翌シーズン途中でF1へと帰り、シリーズにはふたたびアメリカ人ドライバーが並ぶことになったが、しかしもうひとつの変化であるオーバルコースの減少のほうは止まることはなかった。1985年にオーバル比率が7/15となってはじめて半数を割り込むと、以後オーバルの数がロード/ストリートを上回る年は一度として来なかったのである。1991年など、全18レースのうちオーバルの開催はたった5回だった。

 北米に特有のコースであるオーバルの割合が下がるなかで垣根が取り払われたのか、1980年代後半からは外国人、それもファビ同様にF1経験があるドライバーの活躍が少しずつ目立つようになってくる。2度にわたるF1チャンピオンの経歴を誇るエマーソン・フィッティパルディは1984年にCARTで現役復帰すると1985年から毎年勝利を記録し、1987年にはF1で芽が出なかったコロンビア人のロベルト・グェレロも2勝を上げた。そして1989年、米国はついに「陥落」する。42歳となっていたフィッティパルディはこの年絶好調で、23年ぶりにアメリカ人の手からインディ500を奪い去ると、6月から7月にかけて3連勝を記録。ついにはリック・メアーズ――3度のCART王者にして、インディ500を4勝した――を10点差退けて、戦後はじめて米国の選手権を獲得した外国人となったのである。

 翌年のインディ500もオランダのアリー・ルイエンダイクが優勝するなどCARTの国際化は少しずつだが進み、1993年、前年にF1を制したばかりのナイジェル・マンセルが現れてあっさりとCARTをも攫っていく。同じ年、CART王者の肩書を背負ってヨーロッパに渡ったマイケル・アンドレッティはチームメイトのアイルトン・セナに手も足も出ず、シーズン途中で若いミカ・ハッキネンにシートを奪われていた。

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 未来から歴史を振り返ってみると時おり必然としか思えないような奇妙な符合に遭遇したりするものだが、ダン・ガーニーがチャンピオンシップ・カー・レーシングの発展のために参照したのがバーニー・エクレストンであったこともまた、ずいぶんと示唆的に感じられる事実の一つかもしれない。F1の成功をモデルとしたCARTが1980年代半ばから1990年代にかけて辿りついたのは、ヨーロッパに通ずるロードコースの増加とグローバル化にともなうドライバーの多国籍化、さらには車輌の重要度が向上したことによる技術重視主義という、まさに世界選手権であるF1そのものの姿だった。そしてそうなれば当然、インディカーとF1の比較も露骨になってくる。1993年に両者の間で「交換」された2人の王者のあまりに対照的な結末は、世界のモータースポーツ秩序におけるインディカーの位置づけを問うようでもあった。

 1992年に「インディカー」の商標権を獲得し、インディカー・ワールド・シリーズの名前をブランドとして確立しようとしていたIMS社長のトニー・ジョージ(アントン・ハルマンの孫にあたる)にとって、どうやらこのような状況は我慢ならないものだったらしい。1994年、マンセルに圧倒された次のシーズンのオーバル開催数は全16レース中6回に過ぎず、フル参戦ドライバー24人のうち、アメリカ人はイタリア生まれのマリオ・アンドレッティとドイツ出身のドミニク・ドブソンを含め11人だけになっていた。そんな「世界的な」シーズン開幕前にジョージが発表した構想は、やがてインディカーの行く末をふたたび左右することになる。すなわち、オーバルに特化しアメリカ人を揃えた低コストのシリーズ、IRL(Indy Racing League)を立ち上げる――。

 IRLが誕生するまでの過程には、あきらかに歴史の皮肉が見て取れる。もともとCARTの成り立ちを考えると、その目的のひとつはレーシングチームの利益を確保し、参戦費用を軽減することにあったわけだった。Championship Auto Racing Teamsといういささか奇妙にも思える名称には、チームこそレースに欠かすことのできないピースであるという信念が込められていたはずである。

 だがインディカーのシリーズとして成功を収め、飛び交うドル札が増えていくごとに、組合的、互助会的に成立したはずの組織運営はいびつなものになっていったようだ。マシニスト・ユニオン・レーシングの監督だったアンディ・キノペンスキーは、1986年に「5年前に年間50万ドルだったコストが、いまでは200マイルレースに出向くために4万ドル必要になっている」と話している。参戦費用は年間100万ドル単位に膨れ上がり、すでに弱小チームの財政を圧迫するようになっていたという。

 さらに3年後、彼は一部のオーナーが、より有利に、そしてより裕福になるようCARTの運営を私物化していると強く批判することになる。1988年から1989年にかけて行われた32レース(非選手権含む)のうち、じつに28レースで優勝したのはシボレー−イルモア製のエンジンを搭載した車だったが、圧倒的な戦闘力を誇るこのエンジンを使用できたのは、CARTの幹部に名を連ねるオーナーが所有する4つのチーム――ニューマン・ハース・レーシング、ギャル・レーシング、そして皮肉なことに志高きCART創設メンバーであったはずのパトリック・レーシングと、チーム・ペンスキーだけだった(フィッティパルディの王座は、そのようにしてもたらされたのであった)。エンジン供給数を制限することで、CARTは自分たちにとって都合のいい結果を作り、収益を特定の場所へと集中させるようにしたのである。キノペンスキーの怒りは、このように中小チームの予算をいたずらに圧迫し、財政規模の大きいチームだけが有利になるようレギュレーションを操作するペンスキーたちに向いていた。

 運営における疑惑はそれだけではない。たとえば1990年にポルシェ・ノース・アメリカがカーボンファイバー製のコクピットを開発して投入、ジョン・アンドレッティを非シボレー勢として最上位のランキング10位に送り込んだが、CARTはそれを即刻禁止し、ポルシェにこの年限りでの撤退を決定させている。この件に非難の矛先を向けたトニー・ジョージの主張が正しいとするなら、表向きは安全面を理由としたこの措置は、実のところシャシー開発に乗り出していたペンスキーと、その他のシボレー搭載チームが使用するローラを「援護」するためのものだったという。ジョージは1992年から議決権のないメンバーとしてCARTの運営に加わったが、ほどなく辞任している。

 かくまでに金持ちクラブと化して一部の横暴がまかり通るようになったCARTに対し、中小チームのオーナーは確実に不満を募らせていた。IRLが発足するまでの過程に横たわっていたのは米国の喪失と、なによりその事態を導いた志を忘れた運営だったのである。それはまったくもって、いつか見たような話だった。
 
 
 IRLの誕生によって、チャンピオンシップ・カー・レーシングは四半世紀前にCARTがUSACから分裂した過去をなぞるようにふたたび南北戦争へと突入した。体制と化して商業主義に塗れたかつての革命家と回帰主義者との対立は、最終的にインディカーとインディアナポリス、そしてインディ500が不可分に結び合っている事実を強く再認識させる結末を迎えることになる。

 1994年に新団体が発足したとき、すでに一般名称ではなく商標となっていた「インディカー」の名前を使用できる権利は限定されていた。当然オリジナルの権利を持つのは1992年にそれを取得したIMSであったはずだが、1997年までCARTにライセンスする契約が結ばれており、IMSが中心となって発足したにもかかわらず新団体は「インディカー」を使えずIndy Racing Leagueを名乗る。しかしCARTとIRLの交渉が物別れに終わり、1996年からIRLの独自シリーズ(大会名はそのままIRLとなった)が実際にスタートすることが決定的になると、IMSはIRLのためにCARTへのライセンスを停止しようとした。CARTは契約を護るためにIMSを提訴するが、IMSの側も反訴によって対抗し、「インディカー」の名前はついに法廷の場に持ち込まれる。その詳細については残念ながらわからないままだが、両者が最終的に和解した条件は「CARTは1996年限りでインディカーの名称を放棄する。ただし、IRLも2002年12月31日までその使用を停止することとする」というものだった。

 この争いにおいて、シリーズの目玉となりうるインディ500の位置づけは重い。先述したとおりCARTが1979年にスタートしてからもインディ500だけはUSACによって認可されるイベントであり、1980年のCRL(Championship Racing League、USACとCARTの歩み寄りによって結成されたがわずか5戦で頓挫した)開催、1981〜1982年のUSAC開催を経て、1983年以降は「USACが認可するCARTとは別の大会であるが、順位はCARTの選手権ポイントに反映される」という二重体制のもと実施されてきた。IMSが開催地であることはもちろんのこと、そういった経緯からインディ500はごくごく自然とIRLのものとなり、そしてCARTがインディカーの名称を放棄したのは、まさにインディ500を持っていないのにそれを名乗ることに意味がないからだった――それは、「インディ500を走る車」の謂なのだから。

 もとより決して強いとはいえなかったインディ500とCARTの関係はこうして断たれる。1996年シーズンはすでにインディ500を失っていたにもかかわらず「インディカー」を使い続けているが、これは、Twitterアカウント@epsilon5a EPSILON(イプシロン)氏によればその年のインディ500を走る車が一年落ちのCART車輌だからという事情があったためだという。つまりは最後のシーズンも結局はインディ500とのかかわりのなかにしかなかったわけである。IRLに対し2002年まで冷却期間を置かせたのは商売上の必然とはいえ、インディ500とともにインディカーを失った傷は深く、そしてまた、化膿が広がるようにCARTをやがて蝕んでいくことになる。

 結局CARTは1997年から伝統的な名称である「チャンプカー」を使用するようになり、またIRLも「インディカー」を止められてしまったため、以後6年にわたって名目上の「インディカー・シリーズ」は消滅する。その間CART対IRLの対立は激化の一途をたどっていくが、決着の要となったのはやはりインディ500であった。
 
 
 1995年5月に発表されたIRL初年度の開催はわずか3レース、フロリダに建設予定のウォルト・ディズニー・ワールド・スピードウェイで1996年1月27日に実施される初レースに続いて、3月24日のフェニックス、5月26日のインディ500でシーズン終幕となっていた。さびしい日程ではあるが、IRLは将来に向けてインディ500を最終戦にする構想を持っていたから、それに向けての第一歩とも言えた。対するCARTは、直後に出した同年のカレンダーでIRL潰しの意識を隠す素振りもせず露にしている。3月17日に第2戦ブラジル・リオデジャネイロ、そして3月31日にはオーストラリアのサーフェス・パラダイスで第3戦が組まれたその意図が、遠い外国でのレースでIRLの開催週を挟みこんでチームやドライバーのIRL参戦を妨げることにあったのは明らかだった。

 設立の経緯からしてIRLは弱小の集まりであり、CARTにレベルの面で太刀打ちできるはずもない。IRLの狙いは当然ながら有力チームや有名ドライバーの排除ではなく取り込んだうえでの服従であり、そのための頼みの綱は40万人の動員力を誇る商業的価値や、抗いがたい伝統を持つインディ500だけだった。CARTの日程を確認したIRLは1995年7月3日、圧力への対抗策としてインディ500を前面に押し出した新しいルールを発表する。やがて「25/8ルール」と呼ばれるようになったそれは、1996年5月26日のIMSに用意される全33グリッドのうち25グリッドを――まだそれだけの台数が用意できるかどうかもわからないうちに――IRLポイントの上位者に与えるというものだった。しかもそのポイントを、各レースで獲得した合計に参戦レース数を乗じて算出することにしている(シーズンが3戦しかなかったにもかかわらず、初代チャンピオンのバル・カルキンスが246点を稼いでいるのはそういう理由で、82点×3レースだった)。つまりIRLに「フル参戦」することをインディ500参加の条件にしようとしたのである。これは、1980年代初頭にUSACとCARTがインディ500にかんしてだけは共同歩調をとったような妥協が不可能になることを意味していた。

 IMS社長のトニー・ジョージがインディカーを北米に回帰させようとしたのは伝統的な保守主義によるものではなく、多くはビジネスに基づく判断、つまりそうしたほうが人気を見込めるからというものだったようだ。実際、ジョージはいくつかの改革によって、伝統を重んじる人々を怒らせている。長らくインディ500のためだけに存在したIMSがNASCARに開放され、ブリックヤードをストックカーが走ることになったのは1994年のことだ。バーニー・エクレストンと接触してF1を誘致しようとしてもいる(これは2000年に実現した)。そして25/8ルールもまた、インディ500を破壊しかねない危険をはらんでいた。つまり強力なCART勢が参戦できなくなることは、「最高の33台による世界最速のイベント」でなくなるも同然だった。IRL勢だけでレースのレベルを充足させることは不可能に近い。それでもIRLは、インディ500を自らのビジネスのために自らだけのものにしようとしたのである。

 25/8ルールに反発したCARTは1995年12月にインディ500のボイコットを決定、インディ500とまったく同日の1996年5月26日に、インディ500とまったく同じ500マイルオーバルのU.S.500をミシガンで開催することを発表する。はたして当日、インディアナポリスに車輌を運び込んだCARTのチームはギャル・レーシングとウォーカー・レーシングのみ、それも1台ずつに過ぎず、ステアリングを握ったのは控えドライバーだった。そして、その程度のCART勢にIRLは2位を奪われた。予選最速タイムを叩きだしたスコット・ブライトンが練習走行の事故で死亡する悲劇の直後にスタートが切られたレースで優勝したのはバディ・ラジア――後のIRLチャンピオンとして名を残すことになるが、当時はCARTで勝利がなかったどころか最高位7位、一桁順位を記録したのはたった2回の、何ということはないドライバーである。いやそもそも、コース上にいるほとんどがそんなドライバーだった。このインディ500のスターティング・グリッドに並んだ33人のCART優勝数は、すべて合わせてもわずか5。もっとも実績があったと言えるのはF1で5勝したミケーレ・アルボレートだが、予選12位、決勝はリタイアに終わっている。アメリカ人の優勝経験者は、18年前にUSACで最後の勝利を上げた54歳のダニー・オンガイス以外だれひとりいなかった。

 詳細なデータは不明だが、しかし、にもかかわらず、どうやら観客動員数もニュースの注目度もU.S.500よりインディ500が上回ったらしい。サーキットの規模や開催期間が違うので単純な比較はできないが、ミシガンの観客が11万人ほどだったのに対し、インディアナポリスはさすがに例年より減らしたもののそれでも30万人以上を動員したという(どちらも公式発表はされていない)。初年度の直接対決がこのような結果になったことが、あるいは未来を決定づけたのかもしれない。CARTの最重要イベントとして位置づけられたはずのミシガンからは以後、毎年のように観客がいなくなり、1999年の入場者数は5万人台に急落していた。
 
 
 名目上その名称を名乗ることはできなかったといっても、実態としてIRLが「インディカー」であったことは、象徴となるレースの存在によって明らかだった。1997年以降も変わらぬ人気を維持し続けたインディ500は、跳ねのけられない伝統の祭典として強い影響力を持ち、IRL対CARTの未来を決定づけていく。たとえば2000年にはチーム・ペンスキーを解雇されたアル・アンサーJr.がIRLに転向して初勝利を記録し、また現在に至るまでインディカーの有力チームとして知られるガナッシ・レーシングがCARTのチームとしてはじめてレギュラードライバーをともなってインディ500に参戦し、「デビュー戦」のファン=パブロ・モントーヤが167周をリードして優勝している。

 この出来事じたいは「人気のIRL、実力のCART」をより実感させる結果に過ぎなかったが、同時にCARTが失ったインディ500やインディカーを欲していることを印象づけるものでもあった。2001年にはガナッシに加え、IRL設立時の最大の敵だったチーム・ペンスキーと、マイケル・アンドレッティ擁するチーム・クール・グリーン(のち、アンドレッティ・グリーン・レーシングを経て現在アンドレッティ・オートスポート)がインディ500に加わった。さらに前年CART開幕戦の舞台だったホームステッドやマディソンなどレース開催そのものがIRLへと移行を始めており、CARTの退潮が確実に目に見えるようになってきていた。

 2002年、チーム・ペンスキーがCARTから完全撤退してIRLでフルシーズンを戦うことになり、レベルの高さ以外にアピールポイントを持たなかったCARTの打撃は決定的なものになった。そして終焉は訪れる。2003年に商標の停止期間が終了し、IRLがついにその大会名を「インディカー・シリーズ」へと変更して名実ともにインディカーの中心地となると、ガナッシやアンドレッティ・グリーン・レーシングなどの有力チームが雪崩を打って移籍。エンジンを供給するトヨタとホンダまでがインディカーへと移った。大会のタイトルスポンサーであるFedExにも撤退されたCARTは金銭的に立ちゆかなくなり、設立26年目にしてとうとう経営破綻に見舞われた。最後のシーズン、オーバルレースは全19戦のうち3戦。フル参戦したアメリカ人ドライバーは2人だった。

 それからについては詳しい人も多いだろう。 新しく結成されたコンソーシアムのOWRS(Open Wheel Racing Series)がCARTの資産を引き継いで2004年からチャンプカーの新選手権であるCCWS(Champ Car World Series)を継続開催するが、徒花になったセバスチャン・ブルデーの4連覇を歴史の最後として、2008年開幕戦をもってすべてのレースを断念、チャンプカーはその名のもととなったチャンピオンシップ・カー・レーシングから姿を消す。インディカーは働き場を失ったCCWSのドライバーを引き受け、サーキットには多数の「ルーキー」がひしめいた。そんな年の新人賞が下位カテゴリーのインディ・ライツからステップアップしてきた日本の武藤英紀だったことはよく知られていよう。
 
 
 武藤の新人賞は日本人として2004年の松浦孝亮以来2人目の、また1996年のIRL開始から数えて6度目の外国人による受賞だった。この事実からもわかるとおり、IRLが当初掲げた「北米のドライバーによる選手権」の構想はさほどうまくいったわけではない。1998年にスウェーデンのケニー・ブラックが5人のアメリカ人を足元に従えたのを皮切りに、2013年までに外国人がシーズンを制した年は10回を数え、とくに「インディカー・シリーズ」となってからは2006年のサム・ホーニッシュJr.と2012年のライアン・ハンター=レイがようやくアメリカ人王者として挙げられるだけである。交通の発達によって地球が狭くなっていく中で、米国だけの選手権を維持することは難しかったということだろう。それはやむを得ないことだ。だがインディカーはもうひとつ当初の意思を、運営自らの手によって覆した。4月3日のセント・ピーターズバーグ、8月28日インフィニオン、9月25日ワトキンス・グレン。CARTが消滅して2年目、2005年のインディカー・シリーズのカレンダーには、はじめてロード/ストリートコースでのレースが開催されると記されていたのだった。

 インディカーがかつて拒絶したレースをふたたびカレンダーに組み込んだ理由はわからなくもない。CCWSが力を失っていく過程で、当然のことながらオープン・ホイール・カーによるレベルの高いロードコースが米国から消えつつあり、その充足が必要だった、というのは一面の真実だろう。また最初に書いたようにNASCARの人気に押されてオーバルだけでは集客が見込めなくなっていたから、カンフル剤としての効果を期待したということも考えられる説ではある。いずれにせよインディカーはある意味で禁断の果実に手を出した。ロングビーチの週末は20万人近い観客を集め、インディ500を除くあらゆるレースの動員数を上回ってしまった。それを見れば、次の手が俗手になることは容易に想像できたはずである。

 その後のインディカーの歩みを書こうと思えば、ほとんどCART初期のそれをコピーしてくれば足りるかもしれない。CART時代と同様にオーバル開催は次々と姿を消していき、2010年、ついにシーズン全体の半分を割り込んだ。そして同じ年、インディカー・シリーズでははじめてF1の表彰台を経験したことのあるドライバーとして佐藤琢磨が現れる。2年後のインディ500の最終ラップで果敢な首位攻防の末に敗れた彼は、2013年、だれもが知ってのとおり「新しい地域」の優勝者として、インディカーの歴史にその名を刻みつけた。

   *

 もちろん、これはシモン・パジェノーが勝利したインディアナポリスGPの話なのだった。2014年、「インディ500ではないレース」が開催されたインディカー・シリーズはすでに全体の3分の1までオーバルレースの数を減らしている。インディ500がその年の最初のオーバルとして設定されるのもすっかり恒例になった。昨季こそやや紛れの多いシーズンとなったものの、それ以前の数年間がチップ・ガナッシ・レーシング、チーム・ペンスキー、アンドレッティ・オートスポート以外はほとんど勝ち目のないシリーズだったことは記憶に新しい。ダラーラの一社製造になっているシャシーも、「一部の有力チーム」であるチップ・ガナッシやペンスキーが優先的に素性の良いものを選択し、残りを中堅以下のチームで分け合っている、というような噂がまことしやかに囁かれていた時期もあった。

 こうしてみれば、現在のインディカーを取り巻く状況がCARTの末期に酷似していることはだれの目にも明らかだろう。あるいはビジネスのために25/8ルールが作られた瞬間から、現在という未来は暗示されていたのかもしれない。カール・マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の冒頭で、歴史は二度現れると述べたヘーゲルの言葉に「一度は偉大な悲劇として、二度目はみじめな笑劇として」と付け加えたのである。CARTの開始からIRLの分裂まで17年、そしてIRLがレースをスタートさせて18年が過ぎた。いま歴史は繰り返されている。インディ500をなにより守ったはずのインディカーがもうひとつのインディアナポリスを開放することを笑劇であることの証として。

 IRLがCARTから分裂した、できたのは、それがインディ500と不可分な関係にあったからだった。CARTは精神の最後の奥底においてインディカーではなかった。そこにインディアナポリスがインディカーを取り戻す道があったのだ。だがIMSそのものが変容していっているいま、分裂することはもうできない。オーバルだけを求めるかつてのIRLが新たに現れたとしても、インディ500を持たない以上、能力においても象徴性においても力を得るときはけっしてやって来ないだろう。だからこそ、インディカーが繰り返す歴史はもはや悲劇性をまとうことなどできず、笑劇にならざるをえなくなってしまう。

 われわれはパジェノーの勝利に問いを向けなければならない。はたしてそれは、インディアナポリスに刻まれた3つめのフランスだったのか、あるいは別の、インディカーとは違う何かの始まりとして、ただ同じ地に現れただけだったのか。歴史を呼び起こした偉大な回帰だったのか、虚ろな笑いとともに受け入れるしかない反復の現実だったのか。その答えはわれわれインディカーの観客が、すぐに戦われることになる次のインディ500をはじめとした未来のなかに見つけていかなければならない課題である。シモン・パジェノーはインディアナポリスのロードコースを平均96.462mphで駆け抜けている。インディカーはインフィールド区間を何度も右に左に曲がりながらなお、ほとんど全開だったであろう100年前のレネ・トマより14mphも速く走るようになった。

【参考】
RACING-REFERENCE.INFO
(http://racing-reference.info)

Dan Gurney’s All American Racers
(http://allamericanracers.com)

Gordon Kirby, “The Way It Is/ The tragedy of history repeating itself”
(http://www.gordonkirby.com/categories/columns/theway/2012/the_way_it_is_no350.html)

The Philadelphia Inquirer 1986/8/18, “Team Manager: Indy Cars Too Expensive”
(http://articles.philly.com/1986-08-18/sports/26063958_1_cart-series-cart-board-indy-cars)

Los Angeles Times Jan.8.1990, “CART to Deal With Disarray in Its Meeting“
(http://articles.latimes.com/1990-01-08/sports/sp-167_1_winter-meeting)

Twitter: EPSILON(イプシロン)氏 @epsilon5aのツイート
(https://twitter.com/epsilon5a/status/466209223731212289)

その他インディカーに関する各ニュース

頽廃のエリオ・カストロネベスはシモン・パジェノーの後ろ姿を知っただろうか

【2013.9.1】
インディカー・シリーズ第16戦 ボルティモアGP
 
 
 エリオ・カストロネベスが自らの力で何事かをなそうとするような場面は、彼がそうすべき位置にずっと居座っているにもかかわらず訪れなかったし、もう訪れることを期待することにすらすっかり倦んでしまったといえば、何ヵ月も続いてきた展開をまたしてもなぞることになった見た目に派手なだけのレースへの咎めにもなるだろう。9月1日のボルティモアで選手権のリーダーが飛びこんだ9位という最終順位は、およそ本人以外には好ましい意味を与えなかったように思われる。2013年のインディカー・シリーズを刺激するためには車輌規定違反が認められたレースでしか勝てなかったドライバーを引きずり降ろすことしか手はないはずなのにとつぶやいたところで虚しいばかりだ。同僚のウィル・パワーがスコット・ディクソンをホームストレートの壁に追いやって自他ともども車を破壊したのは録画を見なおしても偶然でしかなく、先週のチーム・ペンスキーが見せた未必の故意がごとき事故に比べれば悪意を見出すことはほとんど不可能に近いものだが、結果としてレースから弾き出されたディクソンと、2回もフロントウイングを壊したうえにドライブスルー・ペナルティまで科されながら幾度となく繰り返されたターン1や3の事故を幸運にもすり抜けてトップ10にしがみついたカストロネベスの得点差が49にまで拡がり、自力での逆転可能性が消失したことだけが重くのしかかっている。目下の問題は事故によってタイトル争いの困難が増したということではない(わたし自身、チャンピオンシップそのものにはさほど興味を持っていない)。そうではなく、インディカーが、その中心として目さざるをえないポイントリーダーの恐れを是認しているかのような事態に付き合わされる不愉快にある。この段階になればはっきり問うことができる。今年のカストロネベスがなんの報いも受けないまま歴史にだけは名前を刻もうとしていることを、彼と利害を共有しないわれわれ観客までもが甘受しなければならないのだろうか。

 唯一の勝利を上げたテキサスでシリーズの主導権を握ってから――当時書いたとおり、規定違反があったとはいえその勝利じたいは快哉を叫びたくなるほどのものだったのだが――、カストロネベスはつねに2位との得点差を計算しつづけるばかりの頽廃にまみれ、地位に恋々として勇気を欠くようになった。その姿は「チャンピオン」という甘美でありながら雄々しい響きから想像されるものとはかけ離れている。テキサスでの優勝が心地よさに満たされていたせいで、現状はよけいに落胆を感じさせるようだ。もちろんレーシングドライバーなら妥協による微かな前進に納得せざるをえない時期はあるものだし、むしろ一年を制するという遠大な目標のためにはそうであるべきことさえ理解するが、しかしいくつかの展開の綾によって選手権の2位がたびたび入れ替わり、彼自身が自分を最速と確信できる日がほとんど来なかったこともあって、ポイントリーダーの地位を失うのに怯える期間が必要以上に長引き、そしてリーダーの怯えがシリーズ全体に伝播したと感ずることも、受け止めなければならない現実になった。結局のところ、今年の選手権争いは結末の如何にかかわらずすでに失敗されているということである。シュミット・ハミルトン・モータースポーツのドライバーが(たとえそれがシモン・パジェノーという才能を疑いえない存在であったとしても)この時期にアンドレッティ・オートスポートの全ドライバーに対して上回っていることを想像したものなど、ひとりとしていないはずだ。

 もちろん、パジェノーがここに至ってランキングの3位に浮上したこと自体は自然な帰結といってよい。全体のレベルについて論難したくなるほど大荒れに荒れたボルティモアのレースを制したのが29歳の遅れてきた才能だったことはインディカーにとって慊焉としないもので、勝利を渇望する69周目の一途な機動は障害をはねのける勇気を身にまとって表現することこそモータースポーツにとって欠くべからざる瞬間であることを直感させるし、ただ不注意によって壁に吸い込まれていくドライバーが多かったボルティモアにあって勇気の行使を誤らなかった数少ない存在でもあった。先週のソノマでチャーリー・キンボールを相手に清々しく敗れたのも含めて、カストロネベスに冒されたここ数戦の硬直からもっとも自由に振る舞いつづけ、勇気を失っていなかったのは、選手権を争っていたはずのスコット・ディクソンでもライアン・ハンター=レイでもマルコ・アンドレッティでもなく、たしかに彼であった。自らが犯した直前のミスに乗じてすぐ外側に並びかけてきたセバスチャン・ブルデーを削り、押し出すようにしながらもターン8を先に制したその決着の瞬間は、ともすればマナーに欠けて見えたものの、そこで発揮される勇敢さだけがレースを制するのだという信念を投げかける運転だったと感じ入らせるものがある。チャンピオンを目前にし、幅寄せしてきた相手に手を挙げて抗議することしかできないいまのカストロネベスからはもはや見つけられない情動だ。もしあの場にいたのがカストロネベスだったら、パジェノーのような覚悟を見ることはできなかったのだと断言しても構うまい。それは、なによりもカストロネベスがそこにいなかった、いる資格さえ持っていなかったことが証明している。 先頭集団から置き去りにされていた皮肉きわまりない幸運によって多重事故を容易に回避しただけの彼の目に、パジェノーの後ろ姿が映ることはなかっただろう。

 ソノマでもボルティモアでも、勇気ある勝者のはるか後方で自分のありよう以上でも以下でもなくただフィニッシュラインへと辿りついただけだったにもかかわらず、カストロネベスは展開とチームメイトに救われていまの地位に留まることを許されてしまった。救われただけにすぎなくても、レースの数だけは消化され、延命装置は稼働をやめない。今季の全周回を走行している唯一のドライバーという程度の記録が、なんの慰めになろう。もし10月の3レースを残すのみとなったシーズンでここ2戦のような展開が繰り返されるようなことがあれば、われわれは臆病な尊敬されざる1勝どまりの王者の誕生を目にすることになる。それは言うまでもなく不幸に決まっているが、しかしもっと不幸なのはそんなドライバーがエリオ・カストロネベスであること、むしろ心より敬意を払われるべきキャリアを重ねてきたドライバーであることだ。CARTでのデビューから15年、勇敢さと少々の無謀さと、迂闊さと愛嬌と、そしてなによりコースを問わない速さによって数多くの魅惑的な勝利を積み上げてきた彼を、われわれは愛してやまなかったはずである。オーバルでもロード/ストリートでも等しく速いこの純粋なインディカー・ドライバーの優勝は28回を数え、そのうちには最高の栄誉であるインディ500の3勝が含まれる。足りないのはシリーズ・チャンピオンだけだと何年も言われ、事実みんなその瞬間を待ち望んでいた。だというのに、と言うほかない。われわれが悲しむべきは、待ち焦がれた悲願と、叶えられるやもしれぬ現実と、しかしそこに現れることのない彼の本質との落差である。いざ現実に巡ってきたチャンスでは得点以外にチャンピオンを証明できるものがなにもないほどの怠惰なドライバーに堕してしまった皮肉を眼前に突きつけられて、現状の無惨さが際立ってしまう。それを不幸と言わずしてなんと言えばいいのか。

 仮にこのままカストロネベスが2013年を逃げ切ることになったとしてもそれは浅薄な勝者にほかならず、もし臆病なままに逆転を許して終わるようなことがあればただの愚かな敗者となることは明らかだろう。そのどちらもが望まれる結末でないことは論を俟たない。ならばこそ、われわれはうわべの戴冠ではなく名誉を守るために、カストロネベスが最終戦までにいまの地位をいったん退く、退きかける儀式が執行されることを願う必要がある。恐れを払いのけてリスタートのターン1に向けて深く飛びこんでいく彼を呼び覚まし、勇気とともにシリーズを制する姿を見届けられるように、あるいは、勇気とともにシリーズを失う姿を見つめられるように。

選手権を担わないチャーリー・キンボールが解いた硬直

【2013.8.4】
インディカー・シリーズ第14戦 ミッドオハイオ・インディ200
 
 
 勝敗の分岐に直結する交叉点が不意に突きつけられるレースというものがある。スタートから千々に拡散したはずだった各ドライバーの辿る線が、それぞれの発する意思の絡みあいによってふたたび撚りあわされてまた解けていく瞬間とでも言うべきその一点において、われわれはときに狼狽さえ禁じえないほど不意討ちにされ、レースの一切をその一瞬の記憶にとらわれることになる。たとえばミッドオハイオの73周目、チャーリー・キンボールがシモン・パジェノーを袈裟斬りにするようにインサイドに飛び込んで抜き去ったターン4は、予想もされない場面が思いがけず立ち現れたことで、一介のバトル、タイヤの温度の差によって決着したと結論するだけでは収まりきらないバトルの価値を示唆しているように思えてくるのだった。

 2013年のインディカー・シリーズ第14戦にあたるこのレースの意義を浚ったときに、シーズンの3分の2を過ぎて終幕に向けて戦略を逆算しなければならない時期に展開されたにしてはあまりに拙劣な一戦だったと評することはおそらく正しい。直前の3連勝でタイトル挑戦者の座へと戻ってきたスコット・ディクソンはまるで一貫性のない燃料戦略によって表彰台の可能性をわざわざ手放したばかりか、不必要なほどにポジションを下げてポイントリーダーのエリオ・カストロネベスの後塵を拝してその差を31に広げられたが、しかしそのカストロネベスさえ、以前から何度も頽廃的と書いてきたのと同様にまたしても選手権への強力な意志を見せることなく、迫り来る後続から命からがら逃げるにすぎないレースを再現した。今季のシリーズは初のチャンピオンに囚われてリスクを冒せない彼の延命装置と化しているようであり、だれかが状況にとどめを刺す、すなわち現在のポイントリーダーを逆転して追い詰めてみせないかぎり、彼が抱える恐れに支配されるシーズンを断ち切ることはできそうにない。

 タイトルを争うドライバーたちが、トップ5フィニッシュの回数を誇ることしかできないカストロネベスの恐れに呑まれるようにスピードを信じられなくなっていくなかで、もはやランキングと無関係に振る舞えるキンボールが純粋な速さでレースの綾を横断したのは当然の帰結のようだった。昨年より5周分総距離を延ばす措置が取られて燃費に活路を見出しにくくなっていたミッドオハイオは、にもかかわらず燃費レースを遂行しようとしたライアン・ハンター=レイとウィル・パワーに相応の報いを与え、さらにその戦略を唐突に諦めて途中で給油の回数を増やしたディクソンにそれ以上の罰を与えた。レースは臆病者を許すことがないという当たり前のことが繰り返されたにすぎないのだろう。彼らがサーキットに裏切られたのは、燃費重視の戦略を、勝利のためではなくあたかも展開を窺う立ち回りのためだけの手段に堕させたからだったように見える。結局自らの矮小さによって硬直した2ストップ勢を嘲笑うかのように、キンボールは無邪気な速さでレースを切り裂いていった。半分の距離を消化したとき、キンボールは初優勝に向けて、すでに余分なピットストップを行ってもなお余るほどの大差を後続に対して築いていた。盤石のリーダーを脅かす可能性があるとしたら、それはおなじ戦略を採用してやはり2ストップ勢を出し抜いてきたシモン・パジェノーだけだったが、おなじエンジンを使うそのフランス人が脅威であることに気づくのには、もう少し時間を要した。

***

 キンボールはピットタイミングの差で一時的に順位を下げた時間帯こそあったものの、31周目から64周目にかけてのほとんどの周回をリードしている。2番手に浮上してきていたパジェノーに対してもつねに5秒以上の差をつけており、あらゆる敵を問題にせず逃げ切ることが可能なはずのレースだった。しかし考えてみると、パジェノーはキャリア初優勝を果たした際、レース終盤にピットストップのギャップを突くスパートでリーダーを逆転してみせている。それはヨーロッパ人らしい彼のしなやかなF1的資質を証明する鮮烈なる加速だったが、ミッドオハイオで訪れたのもまた、同じような状況だった。64周目にリーダーが最後の給油に向かうのを見届けると、パジェノーは背負っていた差を埋めるべくタイヤを酷使しはじめる。チームメイトを始めとした選手権上位勢を退け、いっときは楽勝の雰囲気さえ漂わせていたキンボールにとって、それは予期せぬ追撃だったように見えた。一時的に冷えたタイヤと重い車をあてがわれたキンボールは明らかに劣勢に立たされ、オーバーブーストボタンを使用してまでタイムを削ろうとしたが、渋滞に捕まる不運にさえ見舞われて、73周目に給油を終えてピットアウトしてきたパジェノーの後塵を拝した。

 勝敗の分岐に直結する交叉点は、油断している観戦者に対して不意に突きつけられるものだ。パジェノーのスパートは静かなうちになされ、レースを振り出しに戻すような気配はほとんど感じることができなかった、もちろんそれは観客自身の観察不足でしかないのだが、パジェノーが72周目の終わりにピットレーンへと向かったとき、逆転に十分なリードを手にしていたことは驚きをもって受け止めるべき現象だったのだ。わずか18周分の燃料を継ぎ足し、手際よくタイヤを交換してくれたチームクルーの許を後にしたパジェノーは、果たせるかなキンボールに対し1秒のリードを得てコースへと舞い戻った。

 スタートから拡散していったはずの2人の線は、彼らが合流したこの73周目のターン1からターン4にかけてふたたび撚りあわされることになる。ターン2のヘアピンを立ち上がり、バックストレートに設定された全開のターン3を抜けてターン4のブレーキングゾーンへと差し掛かる。中盤を支配していたミッドオハイオのキンボールにとって、この瞬間こそ勝敗へと至る唯一にして最後の分岐だった。タイヤの温まりきっていないパジェノーが姿勢を乱されないように慎重に減速を開始したそのインサイドに向かって、キンボールは斜めのラインのブレーキングで深く、深く踏み込んでいく。2本の線が偶然にも絡みあったポイントで、キンボールは果たすべきオーバーテイクを完了した。この分岐を制したことは、彼の初優勝により大きな価値を与えることになるだろう。この日のチャーリー・キンボールは速さと、一度きりの機会に飛び込むだけの決意を持ち、だれにもなしえない唯一の走行ラインを描いてみせた。それは選手権に囚われないレースの一回性に刻みつけられる情動にほかならない。パジェノーを抜き去ったキンボールは、フィニッシュに向けて18周のうちに5秒のリードを築いた。すべては一度きりの出来事だ。気まぐれのように撚られた線は、正当なスピードによって必然的に解かれる。その単純な真実を、選手権を担っているわけではないこのドライバーは、彼自身の役割として硬直したミッドオハイオに知らしめたのである。

佐藤琢磨のターン3は、シモン・パジェノーの初優勝のようなものだ

【2013.6.1-2】
インディカー・シリーズ第6-7戦 デュアル・イン・デトロイト
 
 
 今シーズン初の2レースイベントとしてベル・アイルで開催されたデュアル・イン・デトロイト(それがどうにも俗悪に見えるということを言っておくべきだろうか?)を、佐藤琢磨はおよそ何も得ずして終えた。シリーズ6戦目となるレース1はチームの燃料計算ミスによるガス欠でラップダウンの憂き目にあい、第7戦レース2では24周目のターン3でトリスタン・ボーティエにアウトから並んで進入した際にイン側の相手に右フロントタイヤを当ててしまい、反動で反対側のタイヤバリアへと流れてクラッシュした。イベント前には2位だったドライバーズランキングは2つのレースで21ポイントしか取れなかったことで6位へと後退し、チャンピオンシップで後れを取る結果となる。両レースともに後方グリッドから追い上げていたさなかのアクシデントであったことは惜しまれてよいが、それにしても意地悪い向きにはようやく佐藤琢磨らしくなってきたとほくそ笑むことくらいはできるかもしれない。率直にいえば、いくら好調でもやっぱりレースを失いやすいドライバーであることに変わりはないのだ。

 当の佐藤はレース2のフランス人ルーキーに対し、DNFに追い込まれたクラッシュそのものよりもレーススタート時の振る舞いについて強く怒りをあらわにしている(『ジャック・アマノのINDYCARレポート』2013/6/4)。自身も第4戦サンパウロでの執拗なディフェンスで物議をかもしたわけだが、たとえばそのとき他のドライバーから浴びせられた「俺がブロッキングだと思ったからブロッキングだ」といった程度の非難に比べれば、ボーティエが犯したらしい違反とそれに対して下されるべきだった措置を具体的に指摘する彼の言葉はすばらしく論理的だ。すなわち、スタート時にアウトサイドの並びだったボーティエは、最初のグリーン・フラッグ直前の、まだレースが始まっていないタイミングでインサイドにいた自分の前に割り込んできた。スタート前は2台がサイド・バイ・サイドで並んでいかなければならないにもかかわらず彼は加速してドアを閉め、ラインを失ってコンクリート・ウォール間際へと追いやられた自分はブレーキを踏まざるをえなくなった。この動きに対してはペナルティが科せられる必要があるはずだがスタート後にどれだけコクピットから訴えてもレース・コントロールのアクションはないまま、巡り巡って24周目、「本来ならそこを走っているべきではなかった」ボーティエ当人と接触して自分は必要のないリタイヤを喫してしまった、という顛末である。

 あくまで被害者側の証言なのでひとまず話半分に聞いておくのが公平ではあるとはいえ、語られている内容の整合性にはなるほど隙が見当たらず、本来ならレース・ストラテジストが発してもよさそうなレベルのコメントとさえいえる。実際に起こった(自分が観察した)現象とそれがどういう問題を孕むのかを的確に言語化してしまうこの技術は、レーシング・ドライバーとしてはなかなか得がたいものだろう。弁護士の息子として育ったことが関係しているのかどうか、そういえば2004年のバーレーンGPだったかラルフ・シューマッハと接触したときに滔々と自らの正当性を主張して相手にだけペナルティをプレゼントしたなんて過去があったのを考えても、これはF1時代からすでに備わっていた彼の生来的な能力なのかもしれない。言葉の端々に隠しきれない怒りこそ感じさせるが、少なくとも、危険な雨中のリスタートを強行したレース・コントロールに両手の中指を立てて抗議したまではよかったが逆に自分のほうが罰金を食らったウィル・パワーや、視線をF1に転じて無謀な追突をしてきたセルジオ・ペレスを「だれか殴ってやれ」と言ってのけたキミ・ライコネンに比べれば、ずいぶん理性的な反応ではないか(もっともふだん冷静なアイスマンのことだから、暴言にもきっと理由があるのだろう。酔っていたとか、アルコールを摂取していたとか、もしかして酔っぱらっていたとか)。

 おそらく世界を見渡しても、自分のクラッシュについてこれほど整合的な物語(ただ出来事を並べるのではなく、30分前の問題を遠因として挙げてしまうのである)を伝えられるドライバーはけっして多くない。その秀でた能力は疑うべくもないだろう。だがわたしがこの一件によって気づかされたのはむしろその正反対であろうこと、彼が長いトップフォーミュラのキャリアで数多のクラッシュを重ねてきた理由の一端だった。上の「すばらしく論理的」という記述には、実のところ皮肉がこもっている。ボーティエの動きを問題視するそのコメントはたしかに論理的なのだが、しかしまた論理的にすぎるのだ。一分の隙もなく紡がれた物語には、佐藤琢磨というドライバーがレースに対してある種の潔癖な理想を抱いていることを想像させる。考えてもみてほしい。ボーティエは「本来あそこを走ってるべきじゃなかった」(前掲リンクより引用)ドライバーで、佐藤自身は「いちゃいけない相手と」(同)レースをした。その説明が保身による自分勝手な解釈でないとすれば、まさしくそのとおりだろう。では、そんな「本来」「いちゃいけない相手」と、彼はなぜ、動機ではなく原因として、なぜ、接触することになったのだ? いつもながらのまわりくどい文章で核心を迂回しようというわけではない。答えは簡単だ。だとしても、ボーティエは現実にそこを走っていたのである。

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 デトロイトのレース1を制したのはデイル・コイン・レーシングからスポット参戦したマイク・コンウェイだった。こういう結末を、わたしはかならずしも歓迎できたわけではない。2回にわたるオーバルレースでの大クラッシュで大きな怪我を負った経験を持つコンウェイは、そのためにオーバルレースを二度と走らないと決めた。オーバルを引退しただけでなく活動の拠点をヨーロッパへと戻したこのイギリス人は、にもかかわらずWECの片手間のようにデトロイトへとやって来て、呆れるほど速かった。それだけならまだしも、ひと月前のロングビーチではレイホール・レターマン・レーシングで参戦して、今回はデイル・コインなのである。「そこにシートがあるから」という以上の意味を見出せないまま走るドライバーに圧倒されては、乾いた拍手しかできなくなってしまってもしかたあるまい。結果を伝えるwebニュースが「コンウェイ今季初優勝」と書いているのにも陰鬱とさせられた。シリーズを争っていないコンウェイに「今季」なんてあるものか、ふらっと現れて優勝しただけだと言いたくなったりもするわけだ。

 もちろんそれはコンウェイの責任であるわけがなく、むしろ彼自身の振る舞いはインディへの郷愁にあふれているし、そのスピードには惜しみない賞賛を贈りたいと思う(べつに彼のことを嫌っているのではない)。2年前のロングビーチはほとんど運だけで舞い込んできたような初優勝だったが、土曜日のコンウェイに非の打ち所はなかった。愚痴っぽくなるのはあくまでインディカー・シリーズに対するこちらの心持ちの問題だ。本当ならウィル・パワーこそああいうレースぶりで圧勝しなければいけなかったのではと思ったところで結果が変わったりなどしないのだから、勝つべきではない(と信じ込んでしまった)ドライバーが勝ったといっても、現実がそうであるなら折り合うべきである。

 そんなふうに受け入れるのに一呼吸必要な現実があったことを思えば、翌日にもう次のグリーン・フラッグが振られたのだから、俗な金儲けにしか思えなかった2レースイベントにも一種の安定剤としての効果があったかもしれない。日曜日のレース2でもコンウェイのスピードに翳りはなかったが、終わってみればシモン・パジェノーがはじめて勝利する。序盤のラップリードこそコンウェイに制圧されたもののプライマリータイヤを履いた後半はどこまでも速く、フィニッシュでは6秒後方に封じてみせた。とくに第3スティントの終わりから最終スティントにかけてが初優勝のハイライトとして記憶されるべきだろう。最後のタイヤ交換後にダリオ・フランキッティに引っかかってタイムを失ったコンウェイの隙を見逃さずにプッシュし続けてピットワークでリーダーの座を奪い取ると、最終スティントではこの日最速だったはずのコンウェイと互角のラップタイムを刻んで、おなじ戦略でオルタネートタイヤを履いていた2番手のジェームズ・ジェイクスともども退けたのである。勝敗のキーとなるポイントで揺るぎなく速く走れる資質は、まぎれもなく一流ドライバーの持つそれだ。必要なときに必要なスパートを遂行することで、パジェノーは難しいレースを勝ちきった。彼は言う。「荒れたレースを冷静に、スマートに戦い抜いた」。

 ジェームズ・ヒンチクリフと佐藤琢磨に先を越されてしまったものの、昨季のルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得したパジェノーがインディで次に初優勝を果たすべきドライバーであることは明らかだった。しかしいまだ軸の定まらない混戦のシーズンとはいえ、その中でもやや戦闘力に欠けるシュミット・ハミルトン・モータースポーツでそれを遂げるのは、けっして簡単なことではなかったはずだ。トップチームに移ればすぐさまチャンピオンになれるという世間の評価はけっして大げさでない。わたし自身も、昨季あらゆるストリートコースでケータリングができそうなほど滑らかに縁石を踏むさまを見て、それだけでこのドライバーに勝利を与えることがインディカーの使命だと信じきってしまった(それは、F1で昔のセバスチャン・ベッテルに対して抱いた感情と同様のものだった)。逆転を生む戦術の遂行を可能にする高い技量によってその確信は証明され、デトロイトは幕を閉じた。

 わたしにとってレース1がどうしようもない現実だったとするのなら、レース2は理想がひとつが現われた瞬間だった。コンウェイの勝利には(彼自身の事情とは別に)失望を禁じえなかったが、それもパジェノーの初優勝によって回復してしまう。目まぐるしく相貌を変えるインディカー・シリーズで、デトロイトの2日間はちょうどうまいぐあいにコインの裏と表を1回ずつ出してみせた。ここからはわずかばかりの寓意を汲み上げることができそうだ。レースには現実もあれば、理想もある。あってはならないことを受け入れるべきときも、あるべきことが実現するときも、平等にやってくる。片方だけなんてことはない。

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 佐藤琢磨は、トリスタン・ボーティエはそもそもその場にいるべきドライバーではなかったのだと言う。それが間違いのない事実だとして、ではそんな幽霊と接触して自分だけレースから退場することにいったいなんの価値があったというのだろう。たとえ認めがたいことだったとしても、現実にボーティエはそこを走っていた。にもかかわらず直角ターンでアウトから並びかけるというリスクの高い勝負で抜き去りにかかったドライビングをいま振り返ると、まるで、より多くのポイントを持ち帰ることではなく認めてはならない現実を解消することを唯一絶対の使命としていたようにさえ見えてくる。「そうあるべき」だった、ボーティエのいないレースを取り戻すためのサイド・バイ・サイドに殉じて、そのクラッシュは起きた。そしてそれこそが、佐藤琢磨が過ごしてきたキャリアそのものなのではないのだろうか。今にして、過去のクラッシュのうちのいくつかは今回と同様にして犯されてきたのではないかと思えてならなくなっている。

 すでに書いたように、ボーティエに対する佐藤の非難は論理的だ。だが同時に、それはあまりに論理的すぎ、正しすぎるという印象も与える。例にあげたバーレーンGPでの件でもそうだが、彼の理知的な振る舞いにはともすれば危うい過剰さがつきまとう。そこには彼の正しさ以外の事象が存在しないと言い換えてもいい。身勝手な論理での言い訳が巧みという意味ではなく、自分の正当性を正しく認識し、的確に抽出してみせられるということである。繰り返すがそれが特筆すべき能力であることに疑問の余地はない。

 しかし、と思う。ゆえにこそ、彼は自らの殉教者になってしまう。理知的でありすぎるために、心の奥底にある純粋な信念を理性が強固に補強して不可侵の無謬性をまとわせ、やがてもはや自分自身でさえ撥ねのけることができなくなっていく。"no attack, no chance"――その言葉どおり佐藤琢磨はいつも自分を貫いてきた。彼の中にはつねに理想があり、それは正しかった。だが、クラッシュという現実はその崇高さや強度とは無関係に、ひとりのドライバーが抱く理想を跳ね返すときがあるということなのだ。たとえば去年のインディ500のように。たとえば9年前のヨーロッパGPのように。あのときも佐藤琢磨の動きは完璧だった。それでも、彼の理想が描いたレーシングラインの先にはダリオ・フランキッティやルーベンス・バリチェロが理想を無に帰せしめる現実として文字どおり物理的に立ちふさがっていたのである。チェッカー・フラッグを受けることなくレースを終えると、突いてでたのは現実に呑み込まれる前に抱いていた理想と、それを妨げた相手の具体的な問題点だった。その物語は2013年にしたのとおなじように完璧で、やはり完璧でありすぎた。

 秘めたる理性に破綻がないからこそ正しく形作られすぎた信念によって、現実との折り合いがつきにくくなってしまう。佐藤琢磨の印象的なクラッシュは、彼の中にあるそんな齟齬からしばしば生じたのだと、今わたしはようやく悟ることになった。それがコインの裏表だった2レースイベントによって引き出されたのは、もちろん偶然ではないのだろう。ヨーロッパから気まぐれのようにやってきて勝ってしまうドライバーがいれば、待ち望まれた優勝をついに果たしたドライバーもいる。マイク・コンウェイの現実とシモン・パジェノーの理想を結んだ線上で、佐藤琢磨はリタイアした。きっとやむをえないことだ。理想だけが重たくなった歪なコインを投げたとしたら、反対側の現実ばかりが出るに決まっているのだから。